治安維持法と日本の歴史

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治安維持法の周辺の問題を調べています。
小林多喜二の生きた姿、生きた道を改めて考えたり、獄死した市川正一さんのことを考えたりして。
戦前の日本の中で、君主制の廃止を掲げて、天皇主権を国民主権に変えることを訴えることは、最大の犯罪でした。治安維持法は、この思想と運動を徹底的に弾圧するために、1925年に制定されました。
この時の治安維持法の規定は次のようなものでした。

「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」


ウキペディアによると、天皇を絶対的な主権者とする帝国議会であっても、犯罪を犯していない段階の結社に対し、刑を科すことの是非が大きな問題になったようです。
私有財産の否認するという規定は、社会主義の定義としては、全く誤っています。日本共産党は、天皇や地主、寺社の土地の没収を提起していましたが、国民から財産を取り上げたり、私有財産を否定するような要求をもってはいませんでした。
治安維持法にもとづく弾圧は、「国体ヲ変革シ」という点で苛烈を極めました。日本共産党は、1927年綱領をさらに発展させた1932年の綱領確定によって、日本における天皇制の性格を絶対主義的天皇制だと規定し、この絶対主義的天皇制の打倒なしに日本の民主主義的な社会の建設はできないという確固たる認識を獲得しました。
日本共産党は、創立当初、非合法の政党として結成されました。それは、天皇制政府によって、君主制廃止を掲げる政党は、合法政党として活動できないという認識に立ったものでした。
1923年の弾圧によって、日本共産党は、大きな打撃を受け、一時は臨時指導部によって党を解党するという誤りを犯したり、1928年3月15日の一斉検挙、大量弾圧、1929年4月16日の一斉検挙、大量弾圧によって、中央委員会を組織していた幹部が検挙・投獄され、党中央の活動が困難になる事態に陥りました。しかし、そのたびに日本共産党は、不屈によみがえり、組織を再建し、たたかいを組織しました。
日本社会の民主主義を求める運動は、ことごとく天皇制の弾圧の下で、破壊されましたが、国民を弾圧する最大の法律が治安維持法でした。1925年に制定された治安維持法が、全面的に発動された事件が、1928年3月15日の日本共産党員と支持者の一斉検挙でした。
1928年2月に日本で初めての普通選挙(25歳以上の男子による普通選挙。女性は戦後になってはじめて参政権を得た。戦前は全くの無権利状態におかれていた。)がおこなわれ、日本共産党員も無産政党の候補者として11人が立候補しました。また、日本共産党は、この普通選挙の中で君主制の廃止、民主共和制の樹立や18歳以上の男女の普通選挙権、言論、集会、結社の自由、8時間労働制、大土地所有の没収(天皇や地主、寺社の土地の没収からの発展)、帝国主義戦争反対、植民地の独立などの政綱を明らかにして、宣伝活動を積極的に展開しました。
普通選挙がおこなわれた中で、日本共産党が積極的に活動したことが、選挙後の3月15日の一斉検挙、弾圧に直結しました。この弾圧は、中国大陸に対する日本の帝国主義的な侵略戦争と深く結びついたものでもありました。
他民族を抑圧する戦争は、国内でも民主主義を徹底的に破壊します。戦争準備の動きが、日本共産党弾圧と深く結びついていました。
1928年4月、治安維持法は、天皇の勅令によって「死刑もしくは無期懲役」という内容に改定されました。以下はその主な内容です(ウキペディアからの引用)。

1928年改正の主な特徴としては
「国体変革」への厳罰化
1925年法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑としたこと。
「為ニスル行為」の禁止
「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとしたこと。
改正手続面
改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令のかたちで強行改正したこと
があげられる。


長くなりました。今日の締めくくりに、現行の日本国憲法とアメリカの独立宣言と治安維持法との対比をしておきます。
現行の日本国憲法は、思想信条の自由、集会結社の自由を国民の基本的人権として、永久不可侵の権利だと宣言しています。
治安維持法が結社を組織したり、結社に加わったりすることを犯罪として処罰したことは、アメリカが、独立宣言の中に革命権を高らかに宣言していることと対比するれば、異常性がより一層際だちます。

「いかなる形態であれ政府がこれらの目的にとって破壊的となるときには,それを改めまたは廃止し,新たな政府を設立し,人民にとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える仕方でその政府の基礎を据え,その権力を組織することは,人民の権利である」


私たちは、21世紀という現代に生きています。しかし、この日本は、明治維新以降の資本主義の発展の中にあります。現代日本を読み解くためには、日本がどのような歴史を経過して、今日に至ったのかを踏まえる必要があります。歴史認識をもたなければ、現代も未来も見通せないということです。
封建時代から資本主義への変化は、日本の場合、天皇に大政を奉還するという形をとりました。自由と平等と博愛は、日本の場合実現せず、国家主権と国民主権を一手に握る絶対主義的天皇制という社会体制の下で、資本主義が発展するという歴史をたどりました。
絶対主義的天皇制の国家権力は、極めて軍国主義的な侵略性を持った国家として発展しました。
国民主権が犯罪思想だった時代は、そんなに遠い歴史ではありません。国民主権を掲げ、侵略戦争反対を掲げた勢力は、日本の現代史の中では日本共産党を中心に積極的な活動を展開しました。日本共産党の機関紙であった赤旗(せっき)は、まったく非合法の新聞として、もっているだけで逮捕されるというものでしたが、最高時は、活版印刷で7000部発行されました。心ある人々の手から手へ。この非合法の新聞は、帝国主義戦争反対、天皇制の打倒、民主共和制の樹立という考え方を文字どおり体現していました。
もし、戦争反対の勢力も運動もなかったら、日本の歴史は、世界的に見ても恥ずべき歴史をもった国になっていたと思われます。日本社会の中でも、反戦平和を貫いた人々が存在し、不屈に戦い抜いた歴史がありました。
日本による帝国主義戦争は、第2次世界大戦を引き起こし、ファシズムの3国(日本、ドイツ、イタリア)の1つであった日本の敗北をもって終わりました。大日本帝国が無条件で受け入れたポツダム宣言は、5000万人を超える全世界の人々の犠牲の上に立って生み出された、人類の叡智が結実したものでした。
ポツダム宣言に導かれて日本国憲法が制定されました。戦後、憲法制定時の国会で「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」という一文を書き込ませたのは、合法政党として公然と活動を開始し、国会で議員を獲得した日本共産党でした。当時、他の政党が戦前の社会体制に未練を残していた中で、国民主権を掲げた政党は、日本共産党だけでした。日本国憲法の国民主権、恒久平和、第9条と第25条の制定などの規定には、人類史の深い到達点が反映しています。また、これらの規定は、日本共産党の戦前の闘いと深く結びついたものです。
治安維持法をめぐる歴史は、日本の現代史を読み解く一つの重要なカギを握っています。この法律によって命を奪われた人々の生きた姿を知ることは、人間の生き方を考える上でも大きな勇気と示唆を与えてくれると信じています。


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Posted by 東芝 弘明