講演、ようやく終了。

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「時代を切り拓いた人々に心を寄せて── 治安維持法の時代と青春」という題で講演をさせていただいた。小林多喜二の生きた姿をその中で伝えた。
しかし、どうしても言葉に出して読めなかったものがあった。
手塚英孝さんの「小林多喜二」(下)に多喜二の死について、克明な記録がある。何人かの作家のルポルタージュ的な文章で多喜二の死が綴られている。
読めなかったのは、佐多稲子の文章だった。

「心臓が悪いって。どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃは、どこも心臓悪くねえです。心臓が悪ければ泳げねえのに、うちの兄ちゃは子どもの時から、よう泳いどったんです」「おっ母さんは襟をかき合わせてやり、今度は顔を撫で、髪の毛をかき上げて、その小林の顔を抱えて、『それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか』そう言って、自分の頬を小林の顔に押しつけてこすった」(佐多稲子)


さて。
人々の記憶や証言というものは、微妙に違う。多くの情報の中から、何を取り出して描くのかという点で違ってくるというのもある。
以下は江口渙のルポルタージュだ。この文章は、戦後発表されたもの。

それまで涙一滴こぼさず、殆ど物もいわなかったお母さんは、家へ帰った安心から、遺骸の枕元へ座るとそのまま、声を立てて泣き崩れた。やがて再び体を起すとしばらくの間、愛児の無残に変り果てた顔をなつかしそうに覗き込み、乱れた髪を撫でてやったり、やつれた頬をさすっていた。が、又々こみ上げて来る悲しみに耐えられなくなったためか、再び体をかがめると、こんどは冷くなった小林の首を両手で抱えて、静かに、だが、如何にもいたいたしく揺すり始めた。その様子は恰も小林がまだほんの子供であった時、この子供思いのお母さんが小林をこうして愛撫したであろうことを思わせるに十分な、とてもものやさしいものだった。
「ああ。いたましい。ああ。いたましい。いたましい。いたましい。心臓まひで死んだなんて嘘ばかりいって。あんなに泳ぎが上手だったのに。心臓の悪い者に、なんで泳ぎが上手にできるもんか。嘘だ。嘘だ。絞め殺したんだ。呼吸のできないようにして殺されたんだ。呼吸がつまって死んでゆくのがどんなに苦しかったろう。呼吸のつまるのが。……つまるのが……ああ。いたましい。いたましい。いたましい」
 お母さんは尚も小林の首を抱えては揺すり、揺すっては抱えて、後から後からと湧き溢れる涙に咽喉を詰らせながら、生きている子供にものをいうように、遺骸に向って話しつづけた。
 私は人間がこんなにも烈しい悲嘆と絶望とに打たれて苦悩するのを、生まれてかつて見たことがなかった。そしてそのあまりにもいたいたしい姿を、もはや一秒間も見ているにしのびなかった。


江口渙は、多喜二の遺体を検視し、その状況を克明に描写した。それは、非常に具体的なもので、多喜二の死が特高警察による3時間にわたる拷問の末の虐殺であることを告発している。
日本の国民主権は、戦前の多喜二のようなたたかいの上に立ってできたものだ。
治安維持法は、国体を変革するものは、死刑もしくは無期懲役という条項をもっていた。国体とは天皇制を頂点とする社会体制のことだ。
当時の天皇制は、半封建的な地主制度と財閥を中心としたブルジョアジーという2つの勢力の上に立つ、相対的に独立した、絶対的な権力を持った社会体制だった。日本共産党は、このような社会体制を絶対主義的天皇制と規定した。天皇制は、日清戦争以後、くり返しアジア諸国に対し侵略戦争を引き起こし、日本の権益の拡大を執拗に追求した。このような情勢下で、日本共産党は、君主制の廃止、国民主権を唱え、同時にこれと不可分一体のものとして、日本による帝国主義戦争反対を訴えた。
君主制の廃止、主権在民の実現、帝国主義戦争反対──この思想が、治安維持法に違反しており、治安維持法は、こういう思想をもつ日本共産党に入ることを犯罪としたものだった。
普通犯罪とは、犯罪行為をはたらいた者を処罰することだ。まったく犯罪行為をおこなっていないのに、日本共産党員となったという理由だけで罪に問う治安維持法は、まさに思想そのものを敵視して、取り締まるものだった。考えただけで罪が始まるというのは、人間の良心を踏みにじる法律だろう。
戦前の絶対主知的天皇制は、自由と民主主義、平和を訴えた人々を徹底的に弾圧した。日本共産党が、最も徹底的に弾圧されたのは、社会主義を主張したからではない。日本における社会主義を唱えた政党は、ほかにもあった。満州事変が起こったときに社会大衆党は、社会主義を唱えながら、中国大陸に対する戦争への協力を表明した。社会大衆党は、太平洋戦争に向かう過程の中で、大政翼賛会をつくるために、自ら政党を解散するまで存立した。
日本共産党は、1932年に確立した綱領(32年テーゼ)によって、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命であり、この革命は、急速にプロレタリア革命に転ずる可能性があるとした。
天皇は神聖にして侵すべからずとなっていた大日本帝国憲法は、天皇に主権があるという憲法だった。日本の民主主義的な改革は、君主制の廃止、国民主権の確立なしには実現しない。これこそ、当時の日本共産党が明らかにした日本社会の最も中心的な課題だった。この理論的な解明が、日本共産党が弾圧をくり返し受けても、不死鳥のようによみがえってくる核心をなしていた。
日本共産党が掲げた具体的要求は、君主制の廃止、主権在民、侵略戦争反対、すべての植民地の解放、外国からの軍隊の撤退、農民に土地を与えよ、男女平等、婦人の参政権、18歳以上の男女の普通選挙権、7時間労働制などなどだ。これらの要求の多くは戦後実現している。しかし、あの当時、こういう要求を掲げることは、許されなかった。国賊、非国民というレッテルは、自由と民主主義、平和に対する憎しみを込めた焼き印だった。心ある人々は、国民主権と平和が実現する社会が必ず生まれることを確信し、生命をかけてたたかいぬいた。
「日本共産党は、昔はイメージが悪かった」
こういう方が多い。悪いイメージは、戦争に国民を駆り立てていた当時の国家権力がばらまいていたものだ。
戦争に反対した人々は、日本の歴史に数多く存在した。このことは、自由と民主主義、平和を守ろうとする人々の共通する誇りであり、未来への希望である。当時の絶対主義的天皇制は、反戦運動を徹底的に破壊することによって、侵略戦争を遂行した。日本帝国主義による戦争は、310万人の日本人の命を奪い、2000万人以上のアジアの人々の命を奪った。治安維持法による徹底的な弾圧が、大規模な侵略戦争を可能にした。この事実を消し去ることはできない。
ぼくは自分のBlogに何度も次の言葉を書いてきた。
今回も、やはりこの言葉を書いておきたい。
「他民族を抑圧する民族は自由ではありえない」


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Posted by 東芝 弘明