やさしさに包まれたなら

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月夜の夜、キキがホウキを逆さまに立てて、屋根の上に立っている。後ろ姿の絵。家や広々とした風景が描かれている。
映画館で買ったパンフレットの最後の絵はこういうものだったと記憶している。
「魔女の宅急便」
この作品は、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の興行的な赤字を埋める上で大きな役割を果たした作品だった。「宅急便」は、クロネコヤマトの登録商標であり、この作品は、完全なタイアップ作品だった。くろねこのジジは、クロネコヤマトのロゴマークにある例のクロネコだった。
タイアップ作品を作らなければならないところまで、ジブリは追い込まれていたのだ。
でもね。それだからこそいいし面白いということでもある。
魔女のキキは、ジブリの危機を救ったということだろう。
この作品は、そういういわく因縁つきの作品だったが、わが家の娘もぼくもこの「魔女の宅急便」が大好きだ。この作品には、普通の女の子の悩みが普通に描かれている。ホウキに乗って空を飛べるからといって、それがとてつもなくすごいことではないという世界が描かれている。
キキの住む世界では、魔女は人間の社会の中にとけ込んでおり、13歳になったら知らないよその街に行って、下宿をして生活をすることが魔女の修業になっている。
宮崎さんの作品には、こういううまさがある。特異なキャラクターであってもそれを簡単に受け入れる設定がなされており、話が実にスムーズに進んでいく。
荒唐無稽な設定にリアリティーを与えるためにはどうすればいいのか。ここを丁寧に考えること抜きにフィクションは成り立たない。
「魔女の宅急便」ですごいなと思うのは、キキがホウキにまたがって空に飛び上がるシーンだ。キキの周りに風が起こり魔女の力で体が浮き上がるというシーンを描くのに宮崎さんはかなり苦労したらしい。どうすれば、魔法の力で飛んでいるように見えるのか。
こういう「リアリズム」をきちんと把握して作品を作らないと、それは単なる荒唐無稽なマンガになってしまう。
渥美清が演じる寅さんが、リアリティーをもった存在となりうるためには、寅さんを背景で支えているとらやの存在が必要不可欠だった。地道に生きるとらやの存在やタコ社長の印刷屋さんがあってこそ、フーテンの寅さんが成り立っている。旅をしていても帰る場所があるので寅さんは生き続けることができた。
寅さんが持ち歩くトランクや背広や服などは、修繕したり新品は一度洗濯したりして、画面の中になじむようにしていたという。これと同じような感じが共通して存在している。
「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」は、わが家の大事な宝物になっている。
「魔女の宅急便」には、ユーミンの曲が使われた。この「やさしさに包まれたなら」は、なんだかキキのために作られた歌のような感じがした。それだけ作品世界と一つになっていた。
ユーミンが過去に作った曲が、ジブリの作品にとけ込むことなど、歌が作られたときには想像もしていなかっただろうに。
タイアップ作品だろうと、全く商業ベースで作られた作品だろうと、「魔女の宅急便」はいい。この頃は、作る作品にストーリーがあったのではないだろうか。
話が最初から最後まで見えている良さといいうものもあるように思うが、宮崎さんは、その後絵コンテを描きながら話を考え、ストーリーが変化していくという手法を採り始めた。話がどうなっていくのか、スタッフには見えない中で作品が作られていくダイナミズムがあるけれど、最初から最後まで作品に一貫した流れがあり、伏線を用意しながら見事に話を展開していくという手法も捨てがたいように感じる。
「魔女の宅急便」や「天空の城ラピュタ」の時代には、ストーリーに安定感があるように感じる。
今のストーリーの作り方もこの当時のストーリーの作り方も甲乙つけがたいということだろうか。
ここ一週間ほどは、イルカの歌の題名をタイトルに選んで記事を書いてきた。
なんだか、このやり方が妙に気に入って、曲名をタイトルにしてきた。waoさんから荒井由実はどう?と聞かれたので、題名をユーミンの曲に変えてみた。しばらくは、ユーミンで書いてみようと思う。
まずは、思い入れの強い「やさしさに包まれたなら」からということで記事を書いてみた。
どうなることやら。
曲の名前にしたら、政治的な記事が少なくなった。それはそれで少し気になっている。


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Posted by 東芝 弘明