生わさびのチューブみたいに

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議会だよりがようやく完成した。
視察先の検討を行って、昭和町か志賀町のいずれかに行くこととなった。
昼からは笠田小学校の授業参観。6年生の道徳の授業を見せていただいた。
3階の教室からは、笠田東の町並みが見える。目線の高いところを電車が走っていた。民家が並ぶ町並みの間に線路がある。JR和歌山線が家並みの間を走っているように見えるのが不思議だった。
オレンジ色の3階建ての家があり、西の屋根にソーラーパネルが乗せられている。
「あの家はどこの家だろう」
考えても思い浮かばなかった。少し高い位置から見える笠田の町並みは、いつも歩いてみている地域の景色とは違って見える。
子どもたちは、毎日この景色を見ながら学校生活を送っている。そこにはぼくの知らない景色がある。
親は、自分たちの子どものことをよく知っているので、多くのことが見えていると思っている。でも、毎日見ている世界が、ぼくたちとは違って見えていることさえ、実は知らない。
1年生から6年生の今まで、授業参観の節目ごとに子どもたちの姿を教室の後ろから見てきた。毎日接している自分の娘の成長は、そんなに劇的なものだとは感じられない。
「はい、○○さん」
先生にあてられて、席を立ち言葉を発している子どもたちの姿を見ていると、みんな大きくなったなという感じがする。久しぶりに見る子どもたちの姿は、ぼくの記憶の背丈を超えている。
ほかの人から見れば、わが家の娘も成長しているように見えるに違いない。
子どもたちが、先生の話に集中して授業に参加しているのが感じられた。親が後ろにいても、振り向いてみる子も少ない。
教室の後ろには、子どもたちが調べたことが、大きな紙に書かれて貼り出されていた。
「みんな、字がうまくなったわ」
ぼくの隣に立っていたO君の奥さんがそう言った。
子どもたちをクラスの中で見る授業参観は、家庭で見る子どもたちの姿とは違っている。
人は、人間と人間の関係の中に、新しい自分を吐きだすものだ。
家で赤胃色の絵の具をしぼり出していても、学校では黄色の色を出している。
それは、大人も同じ。家に帰れば、ビールを飲んで赤い顔をして単にひっくり返ってうたた寝をしているぼくでも、学校給食運営審議会では、物知り顔でえらそうに発言している。
落差はかなり大きい。
そうそう、
7時30分から学校給食運営審議会が行われた。
学校給食は、新しい学校給食法と食育基本法によって、食教育という観点が鮮明になり、栄養士の比重も高められている。こういう内容については、教育委員会が認識を深めて、がんばるべきだと思っている。
完全給食の請願が採択されて37年が経過する。この37年間の時間には重いものがある。
かつらぎ町の住民は学校給食を求め続けてきた。かつらぎ町は、さまざまな理由をあげて給食を実施しないできた。町民の給食実施への願いは、悲願だったといえる。広辞苑を引くと「悲壮な願い」という意味が出てきた。悲壮には、「悲しい結果が予想されるにもかかわらず、雄々しい意気込みのあること。」という説明があった。この願いに教育委員会は応える責任がある。
ぼくがしつこいほど、学校給食の内容にこだわるのは、これほど連綿として続いてきた町民の願いをほかに知らないからだ。
学校給食法と食育基本法の内容については、教育委員会に見識を求めたい。
教育委員会が、理想をかかげないとよりよい給食は実現しない。
ぼくのしつこさは、ここにある。
審議会における審議は、21世紀におけるかつらぎ町の学校給食の具体的な内容を規定する側面をもっている。軽く扱うわけにはいかない。
「断じて行えば鬼神も之を避く」
昨年、決算委員長の報告にはこの言葉が書き込まれている。ぼくは、そういう思いでこの審議に臨んでいる。
挑んでいるといってもいい。
「やっかいなやつだなあ」
こう感じている人がいるかも知れない。関係性の中でかなりしつこい面が絞り出されている。さわやかなイメージとはほど遠い。まるで辛子か生わさびのチューブみたいだ。


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Posted by 東芝 弘明