通夜の席で

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朝、道路に葬儀の看板が上がっていた。同級生の名前がそこにあった。51歳だ。
信じられなかった。
お通夜に参列すると同じ小学校の同級生が全員集まっていた。
50歳と51歳という年齢が、みんなの顔に張り付いていた。歩いてきた年輪が顔に出る。
わずか5人の同級生の1人が亡くなった。悲しみが顔の後ろに張り付いていた。
年齢が高くなっていくとこういうことが増えていく。
それは、自分なのかも知れない。
考えてみると、51歳という年齢は、ぼくの母が亡くなった年齢だ。父親は47歳で亡くなっているので、ぼくは父の年齢をすでに超えている。
自分の生きてきた道を考えると、父や母の生涯の短さを考えざるをえない。
現在の自分は、どう考えても死と向き合えていない。
娘のことを考えると、今はまだ死ねないと思う。父はお酒を飲んで病気になり、退院した日に浴びるように酒を飲んで死んだので、無念という意識さえなかったのかも知れないが、4年間がんと闘いながら死ななければならなかった母は、どれだけ無念だったろうか。
人間は、一度しかない人生を歩んでいかなければ、分からないことが多い。母の年齢と重なってはじめて、母の思いがようやく伝わってくる。17歳という年齢で母の死と向かい合ったぼくは、51歳という母の年齢になって、はじめて母の側から死ということを考えられるようになった。しかし、それは、母の死を考え直すということであって、自分の死を具体的に考えるということではない。
遺影は、まだ十分な若さを残していた。
寒さが緩んで、セレモニーホールの外は寒く感じなかった。駐車場に残っていた車はほんのわずかだった。寂しさがこの場所に影を落としているように感じた。


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Posted by 東芝 弘明