物事の法則性にそって自由がある

雑感

音楽の譜面は万国共通の言語の一つだと思う。音に対する感覚は、楽器を演奏するという行為を積み重ねていくなかで、次第に身についていくものだと思われる。音に対する感覚が身につかないと譜面は読めない。五線譜に記されている音符を見て、音の調べが頭に浮かばないと音譜を読めているとは言えない。オーケストラは、作曲家の頭の中に各楽器のパートが音として流れているのだと思われる。頭に浮かんでいる音を付箋に書き留めるというのが、作曲の作業になる。楽器の助けをかりながら作曲する人も多いだろうが、いきなり譜面に書き始まる人もいるだろう。

音楽のことは全く分からないが、文章を書く行為についてはある程度分かる。書くときに全ての書くべきことが頭の中に全部あることはない。次々に浮かんでくる文章を書きながら考えが進んでいくというのが、書く行為だ。作曲も頭の中で全部曲ができて、それを書き留めるというのではなく、書くと次々に展開が目の前に現れて来るというものではないだろうか。

書くというプロセスが、次の展開へとつながっていくというものだろう。こういうものだから書いてみないと分からないし、書きながら考えるということにもなるし、書いてみて初めて見えることもあるし、ときには、自分の思惑をこえていい展開になることもある。書きかけの作品を捨ててしまって、再現しようとしても二度と同じものはできないということにもなる。
文章を書くことと譜面に曲を書くことが同じであれば、同じことがいえる、と思われる。

音の法則性というのは、かなり自由度が低い。和音の数がいくらあるかは知らないが、和音の組み合わせや流れには、法則性がある。この制約の中で曲が作られる。法則からはずれた音は、はずれていると感じてしまう。その制約の中で無限に曲ができる。新しいものも生まれる。
楽曲の演奏ということになると、譜面通り演奏することがまず高いハードルになる。スポーツの場合は、下手くそでもそれなりに楽しいという世界が確実に存在する。そこから始まって超人的なレベルの世界が同じ競技の中に背中合わせのように存在している。たとえば、幼稚園児の徒競走と世界のトップアスリートの100m走はどちらも成り立つように。
しかし、曲の演奏は、幅の狭い音の法則というものがあるので、下手な演奏と上手な演奏というものの違いは、歴然としている。小学生の演奏でも、とんでもないレベルの演奏ができる人が希に存在する。音楽の演奏を行うものは、いきなり譜面に描かれた曲を演奏するというものに直面する。譜面の前では素人もプロもない。他人が聞いて、へたでも楽しいよねという世界が曲の演奏には少ない。
演奏というものが厳しい練習の伴うものにならざるを得ないのは、音の法則という制約があるからだ。

物事には、その物事を規定(支配しているといってもいい)している法則性がある。その法則性に基づいて自由が存在する。それと格闘する中で新しいものが生まれてくる。法則性を知り、それと格闘するのは楽しい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明