卒業式の記憶

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娘は今、進研ゼミの中学講座にはまっている。今日は中学生の準備のための模擬テストを一人で行って、自分で採点もしていた。
春休みに中学用の予習もはじめて、英単語を覚えたりしている。
ぼくは、卒業から入学まで遊んでばかりいた。勉強などする気もなかったのに。
随分昔のことだから何も覚えていない。
入学式のことも記憶にほとんどない。
小さな学校から580人もの大きな中学校に入学して戸惑ったことを覚えているのと、寄宿舎に入って第一日目のときは、ものすごく心細かったことを記憶している。
1年D組になって、ぼくの後ろの席に目の大きな女の子が座っていて、話をしたことも覚えている。
国語の教科書に載っていたのは、「この新鮮な気持ちを」というエッセイだったかも知れない。
2年生の時の最初に載っていたのは、川端康成の「朝の光の中で」だった。
記憶には、鮮明な記憶とあいまいな記憶がある。鮮明な記憶は、どういう形で残るのだろう。くり返し思い出すことによって、記憶に残っているものと、非常に強烈に印象深いことが情景と一緒に残っているということなのかも知れない。
でも強い思い出ではないのに、情景がクッキリと浮かんでくるものがある。そこに記憶の不思議さがある。
ところで、ふと思いついたことがある。
ぼくは、入学式や卒業式の様子を鮮明に覚えていない。
なぜ、感動的なはずの卒業式のことをほとんど覚えていないのだろうか。
卒業式の日の記憶はある。
高校の時の卒業式が一番印象的だった。それは、式ではなく式が終了した後、教室で先生とお別れしたときのことだった。
「『仰げば尊し』を歌います」
K君が起立して大きな声でそう言った。みんなが席を立った。
全員が「仰げば尊し」を歌った。
この情景は一枚の絵のように記憶に残っている。
式の印象がほとんど残っていないのはなぜだろう。
最近の日本の卒業式は、日の丸と君が代を扱うことが第一になっている。
実はこのことを中心に式が成り立っているといってもよい。
このことに日本の教育界(本当は文部科学省)はかたくなにこだわっている。
文部科学省は、これこそが教育の中心命題であるというのかも知れない。
しかし、これは極端な形式「美」に見える。「美」意識は、人それぞれだから、おそらく「美」と感じている人々にとっては限りなく厳かで美しいに違いない。
しかし、この形式「美」にこだわっていると、個性的で印象的な卒業式はなかなか作れないのではないだろうか。
内容を組み立てていくとその内容に伴って形式が成り立っていく。しかし、形式にばかりこだわっていると、内容が抜け落ちていく。形式を本当に充実したものにするためには、たえず内容を豊かにする努力が必要になる。
日本の教育には、型から入っていくものが多い。形を教え込んで内容を培っていくという1つの哲学さえある。学校の制服、学校の校則などは、その1つだと思われる。
形式には、本当はプロセスがある。形式が出来上がってきたプロセスは、内容そのものであり、プロセスとは、内容が発展してきた道筋にほかならない。
型から入る教育は、フォームにばかりこだわって発展のプロセスを見失っていることが多い。
卒業式を個性的でより良いものにするためには、内容の吟味と豊かな組み立てが必要だろう。子どもたちが、自分たちの卒業式の主人公になって、内容を議論して組み立てていけば、形式はその内容にしたがって、形づくられる。
そういう卒業式が実現すれば、式そのものが印象に残る卒業式になるだろう。
ただし、これは、夢のまた夢なのかも知れない。
多くの結婚式のあとの披露宴が、印象的なのは、披露宴の内容にこだわって一生懸命組み立てているからだろう。組み立ての時に大事にされるのは内容であり、形式美は、内容に従属している。
卒業式が形にしばられている中で、少しでも心に伝わるものを残したいと思って、挨拶を行ってきた。心を込めるという点で努力をしてきたと言っていい。
しかし、
うまくいかなかったことの方がはるかに多いし、娘にはコテンパンに言われたこともある。
今年の挨拶もコテンパンに言われてしまった。
内容を大切にしても、うまくいくかどうかはわからない。というごく当たり前の真理の前で、ぼくの努力は粉々に砕けたりする。そこに面白みがある。のだろう。


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Posted by 東芝 弘明