学びと「自己変革」

未分類

「止むは我が止むなり」
この言葉を座右の銘にしたい。「自己変革」を生きる核心にすえたい。
「社会一般のために立ち働くことによって自らを高める」と書いた偉人がいた。ここにも「自己変革」という考え方が貫かれている。
性格は変わるか、ということをブログで書いたことがある。そのときは、十分論点を深めることができなかった。この論を発展させるためには、「自己変革」という考え方を深める必要がある。
自分の認識を絶えず発展させることが、「自己変革」を支える力になる。「自己変革」は、「学ぶ」ことなしには実現しない。

物事に対する認識が深まって、取り組む姿勢が変わることがある。その場合も、よく「あの人は変わった」と評価される。確かに物事に取り組む姿勢が変わることによって、その人が成長し「自己変革」に繋がって行くことはある。しかし、取り組みに熱心なだけで、その取り組みから多くのことを学び、自分の成長につながらないことも多い。
語りたいのは、もっと目的意識的に自己を変革することだ。
自分が持っている性行を変えることは極めて難しい。しかし、性行おも変革したいという意識を持って変革への努力を行うことを通じて、「自己変革」は実現できると思う。

「自己変革」は、切羽詰まったものではない。もっとゆるやかなものだ。また、神経質に取り組むべきものではない。楽しむべきものだ。楽観的な精神のもとでなければ、自己の変革は花開かない。

10代、20代は、自分の中に蓄えられた知識も経験も少ない。知識と経験をバケツにたとえると、その頃のバケツは小さい。幼稚園児が砂場に持ってくる小さなバケツぐらいしかない。学習と経験によって、バケツは次第に大きくなり、精神的に安定する20代後半の頃に一定の容量を持つようになる。
ここからが、豊かな人間的成長を得られる時代に入る。しかし、多くの人は、30代、40代、50代を一定の大きさになったバケツで対応するようになる。
それまでに培った知識や経験で、事態に対応でき、困難を切り拓くことができる。問題を解決するという点からいえば、あんまり学ぶ必要がなくなる。学ばないと、やがてバケツは次第に小さくなる。バケツの中身も減ってくる。そればかりか、新しい未知のことに直面すると対応できなくなる。

これは非常にもったいない。人間の脳は、安定期に入った30代以降、さらに豊かに発展する。30代以降の学びは、一つの学びが他の学びとつながり、今まで見えていなかった物事の連関を発見する方向性を持つ。それは、学びの飛躍を意味する。
学ぶことを惜しまない人、不断に自己変革を求め続ける人は、30代、40代、50代になっても自分のバケツを大きくする努力を惜しまない。この努力を行いながら、さまざまな出来事に対応するようになる(60代以降に触れないのは、自分が51歳だからです)。
30代以降の学びは、新しい発見に次ぐ発見に彩られる。今までの認識が一変する場合もある。10代から20代に出来上がったバケツは、不断に学ぶことによって、くり返し書き換えられ、豊かにされ、つながりあい、大きくなる。新しいことを恐れてはならない。新しいことに取り組むことは刺激的である。
自己変革を求めない学びは、バケツを知識によって大きくはするが、内容の書き換えが少なく、豊かさもつながりあいも乏しくなる。

自己変革を含む豊かな学び。それは楽しい。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

未分類

Posted by 東芝 弘明