セルジオ越後さんの話

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セルジオ越後さんの話をポッドキャストで聞いて、なるほどと思ってしまった。
日本のサッカーについて、他のスポーツについて面白い指摘をしていた。
日本とブラジルのサッカーとはどう違うのか。
比較するとクッキリ見えてくるものがあるようだ。
ブラジルと日本の大きな違いは、ブラジルには補欠がいないということだという。サッカーはサッカーを楽しみたい子どもみんなに開かれているらしく、サッカーをおこなう子どもたちにみんな門戸は開かれているのだという。
日本は、学校にクラブ活動があり、選手になれる子どもと補欠にしかなれない子どもに別れていく。
しかし、セルジオさんは、競争が絶対的に広がる方が、サッカーを楽しめる時間が多くある方がサッカーがうまくなるという当たり前のことをいっていた。ブラジルは、どうもさまざまなレベルのサッカーチームがあり、サッカーをしたい子どもたちは、全員試合に出られるということらしい。
日本のゲートボールの話も例に出して、お年寄りが盛んにゲートボールをおこなうようになって、家から外に出るようになったのは、非常によかったといいながら、しかし、しばらくすると2つの協会に別れ、大会が行われるようになり、補欠が生まれ、お年寄りがまた家にこもるようになってしまった。なぜ日本は管理してしまうのだろうか。こんな話をしていた。
また、日本のスポーツは、スポーツの種別毎にバラバラになっていて、交流がないという話もおこなっていた。
日本では、すべての人に参加が保障されているのは、個人種目しかないという指摘も、そのとおりだと思った。
日本は、学校教育の一環としてクラブ活動を学校でおこなっているが、試合に出れるのはごく少数の子どもたちだけになっている。スタンドで応援しているだけではスポーツは上達しないという指摘はそのとおりだと思う。
セルジオさんの考えの根底には、スポーツというのは楽しむために存在しているという考え方が横たわっている。セルジオさんのいう競争は、選手選抜のための競争ではなく、すべての子どもたちに試合に参加できる権利を保障し、そのなかで自由に競争するという話だった。
ブラジルのように、すそ野を広げないと日本の団体競技は、国際舞台で国際水準には達しないだろうという指摘も、的を射ていると感じた。
スポーツへの参加の平等と自由な競争、そういうものすごく幅広いすそ野があってはじめて、優秀な選手が生まれてくる。この話は、日本のスポーツ界が深く考える必要のあることではなかろうか。
日本の学校のクラブ活動が、教育活動のもとで、試合に出れない大量の子どもたちを生み出し、単なる応援団だけの役割を担わせ、十分な練習さえ保障しない構造は、教育活動そのものを歪めるものではなかろうか。
優秀な選手をよりすぐった選抜チームによるハイレベルな試合を組むのもいい。でも、クラブに参加している子どもたちが、他の学校の子どもたちと自由に試合のできるシステムを同時につくることも選抜チームによる試合と同じく重要ではなかろうか。すそ野の広い試合を保障するために税金を使うのもいいのではなかろうか。
自由にスポーツを楽しめる条件を広げることが、埋もれている才能の発掘にもつながってくる。セルジオさんの話は、こんな夢を抱かせてくれるものだった。


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Posted by 東芝 弘明