高橋亨さんの告別式

出来事

高橋亨さんが亡くなり、通夜、告別式が行われた。ぼくは昨日の通夜と今日の告別式に参加した。
今日は、朝から雨模様だったが、12時30分頃は雨が降っていなかった。自宅で昼食を食べてから喪服に着替えて、会場に行った。大谷セレモニーホールに着くと下側の駐車場に案内された。
来賓の席に案内され、しばらくすると葬儀が始まった。
「まいどー、高橋です」
「ごめんやで、ほんますまん」
高橋さんの口癖が浮かんできた。大きな声で話す人だった。目をつむると笑った顔が浮かんでくる。
「わが党は」という言葉、「ニッポンキョウサントウは」という言葉もよく口にした。和歌山大学の経済学部卒業で、長い間「雑誌経済」を購読して読んでいた。

ぼくが高橋さんに出会ったのは、まだ高橋さんが議員をしていた時だった。23歳で党の専従者になってからの付き合いだったと思われる。ポスター貼りに付き合ったことがあった。2人で電柱にたくさんポスターを巻き付けては笑っていた。貼った後で「ええわ、浮き出て見えるわ」と言って、よく笑っていた。

高橋さんは、人との付き合いが大好きだったと思う。よく笑う人だった。思い出をたぐり寄せて行くと笑っている顔ばかり浮かんでくる。組織の中でみんなと交わって、多くの人を笑わせ楽しくさせてくれる人だった。

妙寺地域には、北田通さんという自民党のボスがいて、長く議員を務めていた。2人ともまだ若い頃の話だったと思われるが、ある時の選挙で北田通さんが高橋亨さんの選挙事務所の前に来て、
「北田通は通る通、高橋亨は通らん亨」
と演説した。
頭に湯気が立つほど怒った高橋亨さんは、北田さんの選挙事務所の前に行って、
「高橋亨は通る亨、北田通は通らん通」
と演説した。

この話を高橋亨さんから聞かせてもらい、全く同じ話を北田通さんからも全く別の機会に聞かせてもらったことがある。2人とも実に嬉しそうな顔をして、この話をしてくれた。
日本の戦後、まだ血気盛んな時代の面白いエピソードだ。

赤旗拡大の議論の中で、夜も更けてきて頭にきた高橋さんが、「そんなもんできるか、今から、コップの上にコップは立たん」
高橋さんがいきり立ったことがあった。和歌山県委員会から来た幹部の人は、
コップの上にそっとコップを乗せて、
「立ったやないか」
と言った。
「よっしゃ、分かった」
それで、赤旗の拡大に行ったということもあったらしい。

高橋さんが引退してしばらくして、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の活動で一緒に行動することが多かった。高橋さんを車の横に乗せていろいろなところに行くことが多かった。
昔の話をいろいろ聞かせてもらった。
しばらくして、大きな病気になって、それでも健康をかなり回復した。それからも一緒に行動することが多かった。何度か自宅で転倒して、入退院を繰り返し病院に2回ほど会いに行ってから、長いこと会わずじまいになってしまっていた。もう一度お会いしたいと思っていたのに叶わなかった。

高橋さんがかつらぎ町の議員をされたのは20年間だった。窪田武夫さんが24年。共産党の先輩議員の2人が引退したときの1990年、ぼくと宮井健次さんが、2人を引き継ぐ形で立候補した。あれから29年、ぼくたち2人の議員は、先輩2人の議員歴を超えた。

お悔やみに行った日曜日はいい天気だった。車から降りても涙が出そうになった。お通夜の夜は、参列した人が多かった。遺影の写真は優しそうに笑っていた。
通夜の席にも告別式にも高橋さんの銀行員仲間で元同僚だったOさんが来ていた。
「私、斎場にも行きたいんですが」
そう言ったので、Oさんを乗せて行くことにした。
銀行員時代の高橋さんの武勇伝を聞きながら車を斎場に走らせた。
雨が降っていた。高橋さんとの惜別を悲しむ「涙雨」だと思った。

斎場でもお焼香をさせてもらい、柩が納められるのを見送った。
2月19日。ぼくの誕生日に高橋さんの告別式が行われた。この日は忘れられない日になった。
明るい人だったので、悲しい話は似合わない。
でも、もう高橋さんには会えない。安らかにお眠り下さい。


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出来事

Posted by 東芝 弘明