「かつらぎ民報」ようやく完成 2005年8月6日(土)

出来事

「かつらぎ民報」のを完成しようとして、手を入れ始めると、細部の修正が必要だったりして、かなり時間がかかった。O君に作成してもらった表も、結合をしていない部分がいくつかあって修正が必要だった。しかし、大半を入力、レイアウトしてもらっていたので、今回は大幅に負担軽減となった。O君さまさまだ。
午後、3時から紀ノ川セレモニーホールでおこなわれた葬儀に参列した。当家のあいさつは、3姉妹の中の真ん中の姉がおこなった。故人の人柄がよく分かるあいさつだった。
妹の親しかった同級生の御尊父の告別式だったので、妹の香典も合わせて届けた。
歳月を感じる。
同級生の一番下の娘さんを久しぶりに見たが、年相応になっているように感じた。
年を取っていないように感じているのは、錯覚というものだろう。帰りの車の中で、自分の顔をまじまじと眺めてしまった。そこには40代半ばの顔があった。
「そこのお父さん」
昨年、大学祭に行った際、大学生にそう声をかけられた。若干のショックがあったが、まあ、「おっちゃん」とか「おやじ」と呼ばれるよりはましだろう。
夜は、「かつらぎ町防災講演会」に参加した。半数以上が制服を着た消防団員だった。
講師は淡路市の職員の方2人だった。もと北淡町の職員の方々だ。
富永登志也さんの話の中に印象に残ることがいくつかあった。
北淡町は、平成7年(1995年)1月17日、午前5時46分に発生した阪神淡路大震災の大きな被災地になった。この町では、消防団員の方々が、300人もの町民をがれきの下から救出し、午後6時の時点で「行方不明者なし」という報告を正式におこなっている。
消防団員が、一人暮らしのお年寄りの名簿を持ち、さらに自宅のどの場所で寝ているかを把握しているような状況の下で迅速に救出活動をおこなえたという。
北淡町では、まず、自分たちの家族を優先して救出し、その後直ちに周りの人々の救出に当たった方が多かったということだ。このような対応は結果として非常に重要な意味を持った。
神戸では、消防隊員が家族の安否も分からないまま、震災直後から救出活動の没頭し、その後発生した大量の火災の消火にあたった。何が辛かったかといえば、家族の安否さえ分からないまま、消防ホースを握って放水していたことだという。神戸はこの教訓から、第一線で救出や消火にあたる部隊の家族の安否を確認し、対応する部隊を作る必要があるとして、体制を取るようにしているという。
まずは家族を救出し、近所の人々を助けないと安心して救援活動をおこなえない。そうならなかった方々は、今でも自分で自分を責めている。
北淡町の人口は、11000人。これで300人が生き埋めになったということだから、倍近くの人口を有するかつらぎ町では、500人〜600人もの救出活動が必要になるかも知れない。北淡町の消防団員は、500人、団員のOBがさらに500人。1000人の訓練された部隊があった。かつらぎ町はそういう条件にはないし、山間部が多く、起伏も大きい。山古志村のような土砂災害が地震によって引き起こされる可能性がある。
救援物資には何が必要なのか。
この点については、山崎パンがただちにパンを届けてくれた、創価学会が物資をいち早く届けてくれたとかいう話もあった。
おにぎりとともに温かいみそ汁、豚汁がほしい。この点では、四国電力がオール電化のためのユニットバスを2台、届けてくれたのが非常にありがたかったという。
物資を送るときには、パッケージに何が入っているかを表示してほしいと取材に答えると、2日後ぐらいから、何が入っているか表示された物資が届き始めた。以前災害にあったことのある地域からは、救援物資が種類ごとに分けられ、箱詰めされた物資が届いた話などが紹介された。
今日のような講演をきっかけにして、さらに具体的に地震でどういう対応をおこなったのか、そのリアルな教訓を集めることだと思う。
防災計画は役に立たなかったけれど、日常的に機能していた職員体制が役に立ったという話もあった。
防災計画については見直しが必要だという提案をおこなったことがある。その際、今ある防災計画は、コンサルタントが作成したもので実践的には役に立たないが、実際に役立つ防災マニュアルはあるとして、災害のときに機能している体制を基本に防災計画を作るべきだと提案した。こういう考え方が、重要だということに確信が持てた。
今日はものすごい雷と土砂降りにあった。夏らしい一こまだった。恵みの雨になった。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

出来事

Posted by 東芝 弘明