2つの葬儀に参列させていただいた

出来事

お昼を挟んで2つのお葬式に参列させていただいた。議員になってから数多くのお葬式に参列している。いつも考えるのは、亡くなられた方への思いだ。忙しい中でも参列したときには、できるだけ最後までお見送りをしたいと思っている。その人の葬儀は、家族にとって極めて重要な儀式になる。一人の人間の死を悼み、かなり長きにわたって法事を重ねていくのは、意味のあることだと思っている。自分の父や母が亡くなってから52年、42年という歳月が経っているが、このような期間の中で、多くの家庭は長きにわたって法事を重ねている。

長い年月をかけて法事を重ねる意味はどこにあるのだろう。法事は、1人の人間が亡くなったことに対して、生きている人間や家族が、死者とどう向きあって行くのかを問いかけるものだと思い始めている。自分が生きてきた時間と父や母が生きてきた時間を比べると、父の人生や母の人生の短さを思う。どんなに生きたかっただろうかと考えることもある。

葬儀のたびにもう一つ思うのは、母が生きていたら今何歳なんだろうかということだ。今日もそういうことを考えながら、亡くなった人と母の年の差を数えていた。1時間の葬儀は、亡くなった人との思い出を振り返る時間であったり、自分の母や父との比較だったりする。

「父とはあまり会話をしなかった」という喪主の方の話を聞きながら、しかし、この息子さんはお父さんの生きてきた道と同じようなことを探求できる職業を選んでいた。亡くなったお父さんの歩いてきた道を同じ職業ではないけれど、歩いている姿が父と息子の関係を物語っていた。

葬儀は、悲しみを和らげてくれる効果をもつものであり、葬儀は、亡くなった人との新しい関係を重ねていく出発にもなるものだと思う。死者は生者の中に生きる。多くの人が死者のことを忘れたとしても、肉親はいつまでも鮮明に死者のことを思いながら人生を歩いて行く。一人の死は重い意味を持っている。その葬儀の場に少しでも寄り添って時間を共有したいと思ったりする。

安らかにお眠り下さい。


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Posted by 東芝 弘明