自由とは必然性の洞察

雑感

今日になっても『羊と鋼の森』の余韻が続いていた。娘に話をするとアップライトのピアノの天板を開いて見せてくれた。ペダルを踏むと弦が遠のいたり、近づいたり、布が上から降りてきてフェルトと弦の間に入って音をソフトにしたりしていた。
アップライトピアノは、グランドピアノの弦を縦にして、狭いスペースでもピアノを設置できるように改良したものだ。ピアノの形が全世界で統一され、今のような形になったのは、偶然性の中に一つの糸があって、そこから紡ぎだされてきた必然だったと思われる。
ピアノの形を決定的に支配したのは、音についての法則性だろう。ドレミファソラシという音階には、法則性があり、音と音との間にある半音を加えると12の音が並ぶという。ピアノの形は、この音の法則性に規定されながら今の形になっていった。『羊と鋼の森』の作品世界は、このピアノの調律に無限の可能性があり、人間の手によって音が縦横に作られることを表現していた。どんな世界にも、そこにはくみ尽くすことのできない無限があるということを豊かに感じさせてくれる作品だった。

「社会にも法則性があると思いますか?」
これは、学生である娘たちに出された大学の哲学の命題だ。この問に対してぼくは、
「どうして、第2次世界大戦後国連ができて「世界人権宣言」が発せられたのか」
「どうして、文化も歴史も全然違うのに、ほとんどの国で貨幣が誕生したのか」
という2つの例を話して、社会にも自然科学と同じように法則性があるのではないかと答えた。娘は社会にも一定の法則性はあるという立場でこの命題に対し、自分の考えをまとめた。しかし、学生の中には、「自分の主観こそが真理であって、社会には法則性はない」という考え方が多かった。

社会の法則性は、人間も自然の産物であり、そこからは逃れられないという、根本的には物質の統一性によって生じるものだと考える。
人間は、直立歩行するようになり、前足が自由になって手となり、この手を使って自然の物を作り替えて生産物を生み出すようになった。世界中に分布している人類は、同じ身体的特徴をもっている中で、人間の手になじむ、物を切る道具を生み出してきた。文化も歴史も違う中で物を切る道具を作ると、基本的には同じような形になってくる。結局は、物資の統一性が道具の歴史を支配しているのではないだろうか。

資本主義の発展によって、世界市場が形成されると、情報が全世界に伝わって、生産物の歴史にも巨大な変化が生まれてくる。全世界でAppleのiPhoneが使用されている。iPhoneという言葉は、おそらく近代社会を形成し、インターネットが普及している国々では、万国共通の「ことば」になっているだろう。多様性を持っていたはずの「道具」が世界市場の中で、その多様性を失って、同じような物に統一されていく。こういう側面は多くの生産物にとっていえることだろう。こういう傾向の根底に横たわっているのも、やはり物質の統一性ではないか。

人類はさまざまな生産物を歴史の中で生み出してきた。そこには歴史や文化に伴って個性があった。しかし、ピアノは音の法則性に支配されるので、楽器としては一つの方向性をもって発展してきた。もちろん、これから先、さらにピアノが形を変えて発展する可能性はあるだろう。しかし、世界市場が形成された現代においては、その発展の道筋は、情報の共有という世界の中で多様性を失って「よりよい、こうであるべき」という方向へと発展すると思われる。
この傾向は巨大な河の流れであっておしとどめられない。
もちろん、多様性はある。従来いいと思われていたことを根本的に覆すような生産物は誕生してくる。しかし、その多様性をもった生産物も、物質のもつ法則性に規定されている。ここから外れて生み出される生産物が、商品経済の中で決定的な力を持つことはない。
結局生産物は、人間による法則性の把握との関係に規定される。エンゲルスは「自由は必然性の洞察」だと喝破したが、ここにこそ物質の統一性と法則性があるのだと思う。企業における新商品の開発は「必然性の洞察」を抜きには成り立たない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明