権利と義務の関係

雑感

権利と義務が対になっていないことを、過去に何度か書いた。権利と義務でいえば、権利の方が少なく義務の方が圧倒的に多い。なぜか。答えは鮮明だ。最近は、法律が国民の生き方を制限することが増えているので、国会のたびに国民の義務が増える傾向にある。姜尚中さんは、かつて政治は、国民の幸福の条件を整えるところにその使命があるのに、最近は、国民の生き方に政治が介入する傾向が強まっていると指摘していた。日本は、安倍内閣のもとで国民の私権を制限する多くの法律を作ってきた。その中心に国の安全保障の問題がある。
国家が国民の自由と権利に積極的に介入して制限をかける傾向を強めることによって、次第に基本的人権を侵すようになりつつある。ここに日本の現在の一つの特徴がある。

現代憲法である日本国憲法は、国民の権利を高らかに宣言し、豊かな基本的人権の条項をもっている。憲法が規定している義務は、自分の子女に教育を受けさせる義務、勤労の権利と義務、納税の義務の3つだけだ。
なぜか。日本国憲法は、国民の権利を宣言するとともに、国家権力の手を縛るところに特徴がある。それは国民主権からの要請でもあり、主権者である国民からの国家権力への命令という側面をもっている。これに対して法律は、国家による国民の権利への制限という形を取っているものも多い。

法律の体系によって、国民の権利よりも義務の方が多くなっているということは間違いないだろう。権利と義務はコインの裏表の関係にはない。一つのものの二つの側面というのが、コインの裏表の関係だが、もともとそういう関係にはないというのは確認できるだろう。したがって、権利の裏には義務があるとか、権利とともに義務をとかいう言い方は、権利と義務との関係を端的に表していない。

基本的人権は、個人の権利を宣言するとともに、「公共の福祉」に反しないかぎりという制限を設けている。国内では「公共の福祉」に対してさまざまな議論がある。議論の焦点は「公共」とは何かというところにあるようだ。これに対して、日本政府は、国際人権規約の「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約、B規約)」の規定に基づき、監督機関である国連の「自由権規約人権委員会」に対して2012年までに6回定期報告を行っている。第4回報告では、「公共の福祉」について、国の見解が端的に述べられている。この見解は、現在の政府見解だと思われる。報告は次のように書いている。

日本国憲法における「公共の福祉」の概念

 憲法第11条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と規定している。しかし、同時に、第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と、第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定している。
 これは人権保障も絶対的で一切の制約が認められないということではなく、主として、基本的人権相互間の調整を図る内在的な制約理念により一定の制限に服することがある旨を示すものである。例えば、他人の名誉を毀損する言論を犯罪として処罰することは、行為者の言論の自由を制限することにはなるが、この制限は、他人の名誉権を保護するためにはやむを得ないことであり、「公共の福祉」の考え方により説明することができる。
 したがって、そもそも他人の人権との衝突の可能性のない人権については、「公共の福祉」による制限の余地はないと考えられている。例えば、思想・良心の自由(憲法第19条)については、それが内心にとどまる限り、その保障は絶対的であり一切の制約は許されないものと解されている。
 さらに、人権を規制する法令等が合理的な制約であるとして公共の福祉により正当化されるか否かを判断するにあたって、判例は、営業の自由等の経済的自由を規制する法令については、立法府の裁量を比較的広く認めるのに対し、精神的自由を規制する法令等の解釈については、厳格な基準を用いている。
 このように、憲法には、「公共の福祉」の内容を示す明文の規定はないものの、「公共の福祉」の概念は、各権利毎に、その権利に内在する性質を根拠に判例等により具体化されているから、「公共の福祉」の概念の下、国家権力により恣意的に人権が制約されることはあり得ない。
 確かに、B規約においては権利を制限できる事由が権利毎に個別的に定められているのに比して、我が憲法においては、条文の文言上は、「公共の福祉」により一般的に人権を制約することができる規定振りとなっている。しかしながら、右は単にその規定振りが異なるに過ぎず、制限の内容は、上記のとおり、「公共の福祉」の概念の具体化が図られることにより、実質的には、B規約による人権の制限事由の内容とほぼ同様なものとなっている。

自由権規約人権委員会への日本政府による第4回報告

「これは人権保障も絶対的で一切の制約が認められないということではなく、主として、基本的人権相互間の調整を図る内在的な制約理念により一定の制限に服することがある旨を示すものである」
ここに日本政府の見解の中心がある。つまり「公共の福祉」の概念には、公共=国家という観点から基本的人権に制限をかけるという見解を取っていないということである。地方自治体にも同じことが言えるだろう。「公共の福祉」を持ち出して、住民の基本的人権に制限がかかるというようなものの見方をしてはならないということだ。公共の福祉と公益とは全く意味が違うということでもある。

自分の基本的人権と他人の基本的人権は同じ。対等平等。したがってお互いの人権を相互に尊重する。ここに「公共の福祉」の考え方の基本がある。権利の乱用に対して義務を持ち出すのではなく、権利の調整は相互尊重にある。自分の利益最優先ではなく他者を自分と同じ権利をもった人間として尊重する。ここに最も重要な中心がある。これは、基本的人権とは何かを学ぶときの中心命題の一つだろう。

日本政府が、国連の「自由権規約人権委員会」に対してこういう明確な見解を示しているので、自民党は、憲法改正草案で「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」にすべて入れ換えたということだ。基本的人権を国の利益によって制限をかけるという規定に変えたことによって、われわれは天賦人権説をやめた、という自民党側からの説明が出てきたということだ。

恒久平和、国民主権、基本的人権を基本とした日本国憲法への否定と改変への挑戦。この立場に立っている自由民主党は、国民を支配する政党として、国民の上に君臨することをめざしているといえる。2000年以降の自由民主党は、この路線を突き進んできた。日本政治の不幸は、自民党のこの路線にある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明