今日は1日、デスクワーク 2006年2月7日(火)

出来事

花園砂利・スカイコンクリート関係の経緯をまとめる必要があったので、溜まっていたメモを整理してテキストエディターで原稿をまとめた。
整理すれば、改めて気がつくことも多い。
旧花園村が、砂利を不法に採取し、その規模が会計の10倍を超えるかも知れないというのは大きな事件だが、現在のところ、県当局も町当局も警察もこの事件を追いかけようとしていない。
10倍の砂利を取っていたとすれば、1億5000万円を超える犯罪になる。
こういう問題が明らかになっても、動きが起こらないところに和歌山県の体質があるのかも知れない。
有田川は、綺麗な川なのにゴミ捨て場のような扱いを受けている。
不正に対して、指一本動かさない体質というのは怖い。正義感をもって告発しても、告発した側が跳ね上がりのようにとらえられ、不正した側には極めて寛大だというのでは恐怖社会だ。
花園砂利採取事件は、もしかしたらこういう和歌山県の体質と対峙しているのかも知れない。
文章の作成が完了したのは、4時30分。ネットで「かつらぎ町の昨日・今日・明日」を送付する作業が終わり帰りについたのが7時20分頃だった。
さて、閑話休題。
最近、教育と競争について考えている。ぼくの中では、果たして競争は教育的な効果をもたらすのだろうかという疑問がわき起こってきている。
子どもの数が減ったら切磋琢磨が出来なくなって、学力が低下するという言い方がある。山間部の子どもの数の減少が、統廃合を肯定する論拠となり、すぐにこういう意見が出される。
でもほんとにそうだろうか。競争できなくなるから学力が高まらないのだろうか。
子どもの数が減ったら、学びあいが保障できず、多面的な視点から真理に到達できなくなるので、人数が一定数以上に減少するのはよくない。ぼくはこのように考える。
授業で大事なのは、同じ場所で、同じ問題をあーでもない、こーでもないと考え、みんなで正しい答えを導き出す、国語なら感性豊かな感じ方を交流し合うということなのかも知れない。物事を自分の頭で考えて結論に至るには、結論を導き出すプロセス思考が大切なのだと思う。
知識は欠くことが出来ないが、この知識には見えにくい手が何本も生えているのだと思う。結論だけ覚え込んだ知識は、この知識に生えている見えにくい手を削ぎ落としてしまう。AだからB、BだからC、CであるということはDも成り立つ。知識から生えている手を削ぎ落としてしまったら、こういうものの見方考え方が育たない。学校の授業では、知識から伸びているさまざまな手を発見させて、物事がつながっている、関連し合って変化していることを子どもたちに「発見」させていくことが極めて大切なのだと思う。
欠くことの出来ない知識と柔軟な思考を培っていけば、学ぶことの喜びを体得できると思う。
本を読むとその本に触発されて次の本が読みたくなる。本にも見えにくい手が生えていて、多くの本とつながっている。
多くの本は、自分の心の中に濾過されて血肉化する。自分の生き方に引き寄せて読んだ本は、自分を育てる土台となる。それは雪のようにはかないのかも知れない。でも積み重ねていけば、やがて豊かな実りとなる。
競争によって競い合う学力とは何だろうか。学力とは人間を豊かにするものであって競争に勝つための道具ではない。本を読みいろいろなことを考えようとするのは、誰かに勝つためではない。競争させることによって、人間を豊かに育てるはずの学力が、手段になってしまい、極端な場合は人間性の育成から切り離されてしまう。
知性は悪魔とでも寝る。理性と知性を育てようと思えば、競争をなくす必要がある。
これは極端な思いこみだろうか。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

出来事

Posted by 東芝 弘明