和歌山県の戦没者

出来事

かつらぎ町の社会福祉協議会が、戦没者の人数を把握している。その人数は1044人で起点は西南戦争だった。つまり明治10年、西郷隆盛が率いた薩摩軍が武装蜂起して明治政府と戦った内戦のときにかつらぎ町からも兵隊に加わった人がいて、この戦争で戦死した人がいたということだ。社会福祉協議会にある記録は、奉加帳のような冊子になっており、そこに名前と住所などが記載されているものだ。一体どの戦争で何人の人が戦死したのかを克明に記録した公的な文書ではなくて、追悼するために氏名を記載してもらった台帳のようなものだと思われる。1044人の分類はなされていない。これを丹念に集計し直せば、ある程度事実に近い戦死者の人数が年代ごとに明らかになると思われる。

しかしなぜ、公的な文書が残っていないのかといえば、役場にあった徴兵関係の資料一切が、戦後すぐに政府の命令によって焼却処分されたからだ。これらの記録が残っていれば、もっと正確に戦死者の人数が把握できたことだと思われるし、どこでどのような戦死の仕方をしたのかもかなり克明にできたと思われる。もちろん、戦地からの報告自体が次第に混乱したので、届けられた遺骨が別人のものであったり、遺体の確認ができず石が入っていたりということがあったという。

それでも、当時の市町村の記録が残っていれば、徴兵から軍への着任、その後の足跡をもっと具体的に追いかけることができただろう。いまできることは、軍人恩給関係で記録を保持している都道府県の記録にアクセスするしかない。

今日は県のそのセクションに戦没者の人数を把握しているかどうか尋ねてみた。支那事変以降の戦死者が郡単位で把握されていた。もしかしたら市町村単位で記録があるのかと期待したが、そうではなかった。それでも貴重な記録をいただくことができた。支那事変以後の和歌山県の戦死者は3万6637人、1945年の和歌山県の人口が93万6006人(人口減少によってもうすぐ人口面では戦前回帰が実現する)。日中戦争以後の戦死者と1945年の人口を比較しても意味はないが、比率を出してみると約4%となった。若い世代の内で何%の人が徴兵され、もしくは志願して兵隊になっていたのかはよく分からないし、その内何人の人が戦死したのかもよく分からない。こういうことを書いていると、公文書の廃棄がいかに罪深い行為だったのかが浮き彫りになってくる。

私たち日本人が、近現代の歴史を克明に理解できない原因の一つは、公文書の廃棄や隠滅にあることは確かだろう。朝鮮人の徴用工問題にしても確かなことが明らかにならない根底にも公文書の廃棄があるだろう。そういうことを過去に大量に行っているにもかかわらず、韓国からのアクションに対して、上から目線で反発してみせる日本の態度というのは、歴史に対して全く謙虚でないのではないだろうか。

今日は電話をかけたついでに、自分の父親の軍隊での履歴を尋ねてみた。「しばらくお時間を下さい」という返事の後、もう一度電話でやりとりをすると、「記録があるようです」という返事だった。申請用紙を郵送してくれると言うことなので、届いたら父親がどこで兵隊として活動していたのかを把握したいと思っている。父親が中国戦線のどこでいたのか。その現地でどんなことが起こっていたのか。自分の手元にある写真を引っ張り出して、県から取り寄せた資料と重なるものがあるのか、探してみたい。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

出来事

Posted by 東芝 弘明