教育について 2006年7月1日(土)

雑感

久しぶりに感じていることについて書いてみよう。
藤原審爾さんの絶筆となった小説「まだ愛を知らない」を読み返している。
この小説を読んだのは、25歳の時だったと思うので、21年ぶりに再読することになる。
21年も経過しているとストーリーをほとんど忘れているので、新しい小説を読むような気分になった。
小説の中では、人間は個別的な存在だから、画一的な教育をおこなうのはよくないということがくり返し書かれていた。
読みながら、このことは、なかなか理解できないなと感じた。すっと胸の中に入ってこない。
この問題への解答は、7月2日付の赤旗日曜版が特集していたフィンランドの教育についての見開き記事にあった。
「人間は一人一人違うから他人と比べるのは無意味だ」
フィンランドの教育は、こういう考え方に貫かれている。
日曜版の記事を読みながら、この話は、藤原さんが小説で展開している「人間は個別的な存在だから画一的な教育をおこなうべきではない」という話と共鳴しあっている。
個別的な存在である人間を尊重し、一人一人に応じた教育をするというのはどういうことだろう。
それは、一人一人の人間が、教育によって個別的な存在であることを否定されないということなのではなかろうか。
日本の教育は、試験による評価をくり返し、点数で人間の価値をはかりつづける。これは、そういうシステムになっているということである。いくら教師が、テストの点数で人間の価値は決まらないといっても、絵空事にしかならない。大学への合格は、まさに点数ではかられ、卒業大学が人間の評価の一つの尺度になっているのは、厳然とした事実である。
画一的な教育と画一的な評価という問題を藤原さんは説き、それを緩和するためには20人ぐらいのクラスや複数の教師配置が必要だと語っていた。
フィンランドの教育に、「人間は一人一人違うから他人と比べるのは無意味だ」という考え方があるというのは、日本の現実と比較するとものすごいことだと思う。
フィンランドの教育には、他人と比べるという現実がないということだ。
人間の持っている可能性を多方面に伸ばす、義務教育段階では、みんなが同じ到達点にまでくるように最大限の努力をおこなう。そのために、習熟度別学級編成はやめて、学習が遅れている子どもたちに補習をおこなうように変えたという。
ペーパーテストによる成績評価と順位付けは、まさに画一的な基準による一斉評価にしかならないということだろう。豊かな人間をそんな単純な尺度で測ること自体がまちがいということになる。
システムによる弊害は大きい。成績による順位付けは、人間そのものの評価にまで化ける。
大学合格は、まさにたった一回のテストの正否で決まる。人間性が捨象され、テストの成績だけが評価の対象になる。
人格などは2の次なのだ。
試験の成績だけがいい生徒が、必ずしもその科目を深く理解しているわけではないということも指摘されている。数学の問題は解けても数学を理解していないという指摘だ。
学校は、人間を豊かに育てる場である。学校生活で発生するすべての問題が、教材になるのであり、教育は人間の全生活を通じて、豊かに、多面的におこなわなければならない。
テストによる順位付けというシステムは、教育本来の多面性を壊し、画一的な教育を無意識のうちに生み出しているといえる。競争教育という一面的な評価システムからの脱皮を図らないと日本の教育に豊かさはよみがえってこないのかも知れない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明