文章を作る速さ
議会だより編集委員会が開かれた。今回は、版下が仕上がってきたので全文を読み合わせながら校閲と校正を行うという作業になった。毎日ブログを書いているので文章の添削も文章を作るのも人より早くなっている。長い文章を短くするというのも、そんなに苦にならない。
文章を書くことが趣味だと人にも語っている。野球で言えば、ブログはピッチング練習かバッティング練習みたいなもの。文章は大量に書く努力なしにはうまくならない。原稿用紙10枚を自由自在に書ければ、本1冊を書くことができる。齋藤孝さんはそう書いている。書き始めて、一気に10枚、4000字を書き上げる。そういうことができるようになれば、文章の組み立ては潜在意識化で完成している。
神経を集中すれば、そんなに書き直しをしなくても文章は完結できる。書く努力が職人のような力を与えてくれる。
毎日大量の文章を書くことは、一つの訓練なので、この努力を積み重ねると自分の中に文章作成のスキルが身につく。大量に本を読むだけでは文章はうまくならない。読む=インプットだが、書く=アウトプットだ。インプットだけではだめ、アウトプットしないと文章はうまくならない。「書く」という行為を通じて、書き方の法則のようなものが見えてくる。
「文章を書くのが苦手」という人が多い。その数は圧倒的だとさえいえる。どうしてそうなっているのか。それは、子どもの時代、つまり小学校から高校まで、文章の書き方をきちんと習っていないからに他ならない。読解は大量にさせられるのに、「書く」行為は極めて少ない。
読解よりも「書く」ことの方が、国語の勉強になる。インプットよりもアウトプットの方がはるかに能動的だ。国語力を子どもたちに身につけさせたいのであれば、読解をしつつ、「書く」ことを教える必要がある。
「書く」実践を国語の中にしっかり組み込めば、読解の力も豊かになるだろう。読解につぎ込まれてきた努力を180度ひっくり返し、文章を分解して書き方を教える。単純なものから複雑なものへとスキルをアップさせるようにすれば、読み書きができる人間が育つと思われる。
新聞記事の書き方から学ぶのがいい。逆三角形の文章構造から学ぶ。起承転結なんてくそ食らえ。20年ほど文章を書いた上で、しっかり考え抜けば、人生に一度くらいは起承転結の文章を書けるかも知れない。
文章の基本は起承転結などにはない。文章で一番難しいのは起承転結だ。起承転結を意識して書けなどと言う人は、文章の達人か、もしくは文章を全く知らない人のどちらかだ。
新聞の書き方を学んでから、日常の身辺雑記を書いてみればいい。そのあと、できれば10代と20代に現代詩を書く努力を勧める。詩を読み、感銘を受ける詩に出会ったら、自分でも書くことに挑戦すればいい。一定の期間、言葉を削りながら、言葉と神経を研ぎ澄まして、現代詩と格闘すれば、対象を見つめる目が育ってくる。自分が見たり体験したことをじっと見つめて、それを短い言葉で表現していく。思い描いた感覚やイメージを文章に再現するのはかなり難しい。どんなに努力しても自分が抱いたイメージと詩がぴったり重なり合うことはないだろう。しかし、自分の書く文を自分の得たイメージに肉薄させる努力の中から詩は生まれる。詩を書く努力は、その後の文章を書く力になって自分に跳ね返ってくる。文章を書く種を自分の中に植えるということだ。
ライン全盛期の時代、多くの人は文章を打っている。短文だけれど。しかし表現の仕方、相手への伝え方は絵文字に頼っている。スタンプという強い味方が現れて、自分の気持ちを相手に劇的に、目に見える形で伝えてくれる。多くの人はそれで「よし」という気持ちになっている。文字だけを通じて、もしくは活字だけを通じて相手に状況を伝え、気持ちを伝えることに努力すれば、人はもっと文章表現が豊かになるだろう。絵文字とスタンプは、この努力を奪う魔力をもっている。やたらと絵文字を使う人は、絵文字なしには気持ちが伝わらないと思っているのかも知れない。
絵文字とスタンプが表現力を奪っていると真剣に考えている人は、どれほどいるだろうか。
文章をもっと自由自在に書きたい。この衝動がブログを書く力になっていることは間違いない。文章を書きたいという衝動なしに15年間、書き続けることはできなかったと思われる。大量に文章を書くと潜在意識の中に書いたときに考えた思考が根を張っていく。自分の中にものの見方考え方が折りたたまれていく。この蓄積も大きい。



