不破哲三さんの本に対する川上則道さんの批判的検討
![](https://katuragi-jcpgiin.net/Blog01/wp-content/uploads/2022/04/415iBc4aQL.jpg)
『空想から科学へ』の中にあるエンゲルスの資本主義の基本矛盾の規定に対し、不破哲三さんが長い研究の末に、この規定に異議を唱え見直しを行った。見直しのほぼ最終的な論理の組み立ては、不破哲三さんの『古典教室第2巻 第3課 エンゲルス『空想から科学へ』』で詳しく展開されている。この本が刊行されたのは2013年10月だった。これに対して、川上則道氏(2017年当時は都留文科大学名誉教授)が、『『空想から科学へ』と資本主義の基本矛盾 ─難読箇所をどう読むか─』(以下『難読箇所をどう読むか』)という本を2017年10月に刊行し、批判的検討を行っている。
最近、こういう本が出ていることを初めて知ったので、この本を購入して、紹介した二つの本を読み比べている。
ぼくは学者でもないし、研究者でもないので以下に書くことは、ぼくの不十分な認識によるものであり、おそらく検討に値しないようなものだとお断りしておく(研究者が読んだら笑われるかも)。
感想は、一言で言うと「面白い」ということだ。川上さんは有名な経済学者で『高齢化社会は本当に危機か』(共著)を1989年に刊行し、野呂栄太郎賞を受賞した経歴をお持ちの方だ。『難読箇所をどう読むか』の論理の組み立ては極めて厳密だ。さすが、経済学者だと思うような記述になっている。
エンゲルスの資本主義の根本矛盾規定「社会的生産と資本主義取得の矛盾」は、一つの企業の中の生産が社会的になっていることと生産物(商品)の取得が私的所有(資本による所有を資本主義的取得と表記している)になっており、ここに根本的な矛盾があるというものである。川上さんは、社会的生産というのは、個々の企業内の生産のことを指しており、社会全体の生産を意味しないということを『空想から科学へ』のエンゲルスのテキストから厳密に把握している。社会的生産を社会全体の生産として捉えると、社会全体の労働が結合されて商品が生産されていることが視野に入ってくる。しかし社会全体の結合された生産の中には、個人が生産した商品も多く含まれる。社会的生産をこういう形で捉えてしまうと、資本主義的取得との関係がよく分からなくなる。個人や他人が生産した商品まで、資本主義的取得の関係にないのは明らかだからだ。川上さんのこの把握は極めて正しいと思われ、不破さんの把握の仕方の中には、社会全体の生産力という把握があり、ここは違うという指摘には納得させられた。
これは不破さんだけの誤読なのかといえばそうではない。川上さんは、多くの方々が書いた本とこの規定の説明の仕方を紹介し、エンゲルスの『空想から科学へ』の難読箇所として社会的生産について論を展開している。不破さんの捉え方を多くの人が採用し、説明してきた歴史がある。これに対して、川上さんは、「社会的生産」の規定を正確に理解してきた方々の論も紹介して、エンゲルスの『空想から科学へ』を正確に読むことを説いている。この緻密さが面白かった。
川上さんは、『難読箇所をどう読むか』の中で、資本家は、労働力商品と原料を購入し、生産手段(土地や工場、機械)を活用して商品を生産するということなので、商品の取得形態が資本の側(私的所有)になるのは当たり前だという認識を示している。これは卓見だと思った。非常に分かりやすい。「社会的生産」を一つの企業の中の集団的な生産として捉えれば、社会的生産と資本主義的取得との矛盾は、一つのものの中の相反する二つの傾向ということになる。つまりは一つのものの中にある対立物の統一という把握になる。
川上さんは、労働力商品の購入と商品生産という関係が、社会的生産と資本主義的取得の矛盾には当然内包されているので、搾取形態も内包されていると把握している。この把握の仕方も正しいと思われる。ただ、搾取形態を内包しているからというだけで、資本主義の根本矛盾を把握した規定になっているのかどうかといえば、ぼくには疑問が出てきた。どうして、エンゲルスはさらに踏み込んで社会的生産と資本主義的取得が矛盾をはらんでいるのかを、搾取の秘密の暴露、つまり剰余価値の生産によって説明すべきだったのではないかという感想をもった。
エンゲルスの「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」という命題は、史的唯物論の命題である生産力と生産関係の矛盾の具体化という側面がある。しかし、読みながらこの命題から導き出されたように読める「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」を資本主義の根本矛盾に据えていいのだろうか、という疑問をもった。それは図式主義的ではないかという疑問だ。史的唯物論は、具体的な歴史的事実を分析する「導きの糸」であって、史的唯物論の命題から具体的社会の命題を導き出す場合は、かなり慎重にならなければならない。史的唯物論の命題に合致しているから正しいというのは、論証にはならない。
不破さんは、エンゲルスの定式化(実は3つの規定がある)に疑問を呈し、その上に立って、マルクスは資本主義の基本矛盾をどうとらえたのかという展開をおこない、資本主義の根本矛盾の捉え方をマルクスにそって再確認している。マルクスの資本主義の基本矛盾の捉え方の方が、エンゲルスの規定よりも深い感じがする。
資本主義的搾取が、一体何を生み出していくのかを深く把握することが、資本主義の基本矛盾を深く把握することに直結するというのが、不破さんの認識だったと思うし、ここが重要ではないかというのが、ぼくの感想だった。
真剣な批判的検討は新しい視野を開く。不破さんの研究を批判的に研究する人は少ない。でも川上さんの研究があって、科学的社会主義の認識がより深く発展する。だれか専門的な知識をもった人が、このお二人の論考を精査して、第3の本が書かれることを期待したい。開かれた体系としての科学的社会主義の発展のために。
今日書いたことは、エンゲルスの『空想から科学へ』を読んだことのない人にとっては、ちんぷんかんぷんだと思われる。blogに書いたことに対して、反応してくれる方がいれば嬉しい。
![にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へ](https://b.blogmura.com/localkansai/wakayama/88_31.gif)
![にほんブログ村 政治ブログへ](https://b.blogmura.com/politics/88_31.gif)
![にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ](https://b.blogmura.com/philosophy/philosophy/88_31.gif)
![にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ](https://b.blogmura.com/localkansai/88_31.gif)
ちんぷんかんぷん、というより、とんちんかんな事を書くけれども、俺は人間の欲望について述べてみたいと思います。
資本主義はこの人間の欲望を際限なく追及する思想であると常日頃考えているのです。人よりいい家に住みたい、旨いモノを喰いたい、いい車が欲しい、金持ちになりたい、いい服を着たい、いい女と遊びたい、いい腕時計をしたい、際限が無い。この欲望がモチベーションとなり資本主義が成り立っていると考える訳です。
共産主義はこの欲望を否定するのでしょうか? すると悪平等となるのではないか? 晴耕雨読ではないが質素な生活でいいのでしょうか? 俺は晴耕雨読の生活がいいと考えています。然し、そうは考えない人がいる。ここに日本共産党の誤解があると思います。共産主義になると私有財産まで認められなくなる、と悪宣伝する反共勢力がある。この悪宣伝はかなり広範囲に繰り広げられていると思います。
俺は昔からこれからの日本は先ず食料自給力の100%化、地産地消で農業水産業林業畜産業を推進すべきだと考えておりました。最近は俺の考えに世の中が少しずつ近づいて来たなと考えております。然し、一気にこの様な事にはならないと思います。現にアマゾンという便利なものがあり、東芝さんにさつま揚げを送り付けました。鹿児島から和歌山にさつま揚げをお送ると先ずトラックの燃料代がかかる、排気ガスも出す、配送業者の過酷な労働、つまり搾取が起きる訳です。だからアマゾンなんてものは無い方が良いに決まっている。然し、あれば便利だ。そこが俺が分からん所なんですよ。共産主義は資本主義の良い所を受け継ぎながら徐々に共産主義を目指す、と言っても俺の考える晴耕雨読的な究極の理想的な姿にはならんでしょうね。これは俺の空想的な考えなんでしょうか? 矢張り人間には抜き難く欲望というものがあり、また楽をしたい、生産手段を社会化して自由時間を作りたい、というのであれば日本は鎖国をしなければならないのではないでしょうか。俺は鎖国をしてもいいのではないかと思います。自給自足で晴耕雨読の生活をする、理想的な姿だと思います。
東芝さんのお考えをお聞かせ下さい。俺の考えは間違っていますかね?
資本主義の生産の中に搾取の仕組みがあります。原料と労働力を商品として購入し、巨大な工場などの生産手段を使って商品を生産します。巨大な労働者集団によって商品を生産する過程の中で、搾取が行われます。この仕組みによって、資本主義は、それまでの時代をはるかに超えて、生産力を増大させました。
資本主義が成立したときには、貨幣の仕組みも発展しています。商品の生産は、やがて金兌換を超えていき、信用貨幣である紙幣に置き換わります。
今や資本の蓄積は、コンピュータによる計算として行われるようになったので、貨幣としての蓄積にも制限がなくなりました。
高度に発達した機械製大工場によって、8時間労働をさせてば、賃金分は2時間程度の労働で生産してしまうようなケースもあります。6時間労働による生産物が生み出す富は全部資本のものになります。こういう仕組みによって、資本主義のもとでの欲望には、限界がなくなりました。
最近Twitter社を個人の資本家が5兆円を超える価格で買収しました。日本の一年間の軍事費を超える資産が、この個人資本家にとっては、ほんの一部なのかも知れません。5兆円という資産を個人で消費するのは不可能です。
資本主義は、資本のあくなき増殖のために、生産のための生産に突き進みます。一方商品は貨幣に転化するときに、命懸けの飛躍を繰り返しています。買って買ってというラブコールの役割が宣伝、コマーシャルですね。人々はこのコマーシャルの中で生活しています。
すさまじく欲望を掻き立てるコマーシャルが繰り返される中で、人々の欲望も掻き立てられています。物欲は、資本主義の生産によって執拗に組織されていると言っていいでしょう。
個人の欲望があって、社会が膨張しているのではなく、膨大な商品によるラブコールによって欲望が増大しているのだということです。もちろんこういう仕組みの中で、個人の欲望が暴走し制御できない人も生まれます。あたかも個人の欲望が欲望の源泉であるかのような倒錯も起こります。
資本主義の飽くなき利潤の追求は、膨大なムダを生み出すとともに、どうしても大量廃棄を生み出します。宣伝に巨大な労力を注ぎ込むのも、壮大なムダの一つでしょう。
資本主義的生産には、多面的なムダが潜んでいます。社会主義は、生産手段を社会化することによって、本当は必要のない労働を克服するでしょう。大量生産と大量廃棄が克服され、労働の主人公は労働者となり生産力もコントロールできるよう変化していくでしょう。
そうなれば、生産力の発展が、人間の発展につながるようなものへと変化する事が展望されます。
人類を破滅へと向かわせていた資本主義のもとでの生産力が、進歩と調和のもとに入り、各人の自由な発展が万人の発展につながる社会が始まると思います。
答えになっているでしょうか。
成程。欲望も資本主義の元で創り出されたものである事が理解出来ました。すると、電通が巨悪の根源ですね。確かに、何故欲望がこんなに際限なく沸くのかと思っていたらコマーシャルの影響を受けていた訳か。そういえば世の中至る所コマーシャルだらけですね。テレビコマーシャル、新聞雑誌、掲示板、電光掲示板、走っている車までコマーシャルだらけ。コマーシャルに汚染されている。俺もそうとは気づかず影響を受けてた訳なんだな。資本主義の権化が電通だった訳か。買って、買って、と言う訳なんだな。その点、しんぶん赤旗には広告が無いのは健全な新聞だという事が言える訳ですね。それだけではなく、広告が無いから財界にも厳しくタブーなく記事が書ける訳ですね。
新しい視点でモノが見えてきました。有難うございます。
コマーシャルですね。命懸けの飛躍を実現するための雄叫び。誇大妄想のオンパレード。ジャパネットたかたさんなんてうまいですよね。買いたくなってしまいます。
パソコンの黎明期。できもしないのに、さもできるかのような宣伝をしていました。現代のパソコンと比べると、新幹線対電動アシストカーみたいなもんでした。
インタネットなんて、画像を表示するのに3分ほどかかっていました。ブロードバンドになる前は、パソコン通信でしたから、まずつなぐのに時間がかかりました。
健康食品やサプリメントの最近の逃げ道は、個人の感想ですというものですね。
SNSは、個人の嗜好に合わせて、コマーシャルを届けてくるので、思わずはまってしまいます。恐いですね。
俺はわりかし、シティーボーイなもんでコマーシャルのシャワーを浴びながら生活している様なもんです。物欲の塊にもなる訳ですよ。
最近の国際状況に鑑みまして面白い歌がありますので張り付けておきます。
くそくらえ節・岡林信康 – YouTube