ハウルの動く城、ふたたび。

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もう旬の映画ではなくなったが、どうしても書いておきたくなった。

「映画を見終わって、ソフィーへの呪いは、半分以上とけたと思った。そしてとけなかった部分は何だろうとも考えた」
「ハウルの心に関する謎が解けたときは嬉しかった。カルシファーとハウルの関係は、この作品をおもしろくもし、複雑にもしている。作品を通じて投げかけた問いは、ソフィーに対する呪いが半分以上とけたように、半分ぐらいは解けたように思った。でもなんだかわからない部分が残った。
『そこから先は自分で考えるべきです』
宮崎監督はそう言っているような気がする。「ハウルの動く城」を見終わったときに、そこから新しい旅がはじまる」


ぼくは、以前、自分のブログに「ハウルの動く城」について上のような感想を書いた。しかし、あらためてこの映画の特集を組んだ「ユリイカ」(2004年12月号)を読み、さらにDVDでもう一度作品を見直して、膝を叩きたくなるような発見があった。
ただ、発見といっても、ぼくの中では確信めいているが、映画は作品に描かれている以上のことは何も語っていないので、多分そうだろうというものでしかないのだが‥。
新しい示唆を与えてくれたのは、小谷真理さん(SF&ファンタジー評論)の「魔法使いは誰だ」という評論だった。この評論では、原作の「魔法使いハウルと火の悪魔」でカルシファーがソフィーにかけられた魔法を見抜いたところを紹介している。

「強い呪いだね」とうとう悪魔は口を開きました。「荒地の魔女の呪いみたいだけど」「そのとおり」とソフィー。「だけど複雑な呪いだよ」悪魔はパチパチといいました。「二重の呪いだね」


このカルシファーとソフィーとの会話は面白い。
ソフィーにかけられた二重の呪いとは何だろう。小谷さんの評論は、この謎解きに向かう。
驚いたことに原作では、ソフィーは自分で自覚はしていないが、何らかの魔法を使う人間だということになっている。謎を解くカギは、どうもソフィー自身にある。
小谷さんの次の文章がいい。

老女になった呪いの二重の正体とは、こう考えられるのではないか。まず直接的なものとしては明らかに邪悪な荒地の魔女がかけた呪い──「おばあさんのように地味な生活を送っているんだから、若い肉体は必要ないにちがいない」という悪意に満ちた老女の嫉妬を含んだ呪詛として。そして、もうひとつは、ソフィー自身が自分にかけた魔法──「おさえつけられ、抑圧された今の状況から脱したい」という気持ちからくる解放の呪文として。


ソフィーは荒れ地の魔女に魔法をかけられて、90歳の老女になったが、映画の中では、夜寝ているときやハウルと夢中になって話をしているときに魔法がとけたような状態になる。つまり、自分の気持ちに素直になってハウルに向き合っているとき魔法はとけている。眠っていて自分が解放されているときも魔法はとけている。ただし、髪は灰色のまま。
解放の呪文として、ソフィーは自分で無自覚なまま、魔法をかけて老女になった。引っ込み思案だったソフィーは、老女になって自分で考え自分で積極的に動く人に生まれ変わったようになる。これは、老女になって自分を解放したからだとも見える。
ソフィーの髪がなぜ最後まで戻らなかったのか。この文章の冒頭で紹介したように、以前ぼくは、この疑問に対して「半分だけ魔法がとけた」と書いた。
しかし、今回は、半分だけ魔法をといて、なぜすべての呪いをとかなかったのか。とかなかったのは誰かなのか。という問いを立てたいと思っている。
もしかしたら、髪が灰色のままというのは、積極的に生きるように生まれ変わったソフィーを象徴的に表す印なのかも知れない。
「千と千尋の神隠し」で千尋の髪をまとめていた紐の役割を、ソフィーの髪は担っているのかも知れない。
起承転結にこだわらないで、大団円を描かずに終わっている「ハウルの動く城」。謎が多すぎて終止符を打てない作品だが、作品の奥行きの深さは、迷宮のようで楽しい。


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Posted by 東芝 弘明