弁証法的論理学とは?

雑感

もう少し、弁証法的論理学について書いてみたくなった。
弁証法は、事実をありのままに捉えるところから始まる。すべてのものは、連関と連鎖の中にある。連関のない事物は存在しないので、事実をありのままに捉えるということは、連関と連鎖をありのままに捉えようとするところから始まる。
もう一つの視点は、全ての事物は運動の中にあり、運動しない事物というものは存在しないということだ。したがって物事を把握する基本には、連関と連鎖、運動の中で捉えるという視点が座ることになる。

ただし、人間は、動いているものを捉えるのは苦手だという傾向がある。クイズのひとつに、絵画が変化していく様をリアルに見せ、変化する部分を当てるというものがある。変化を捉えるのは苦手なので、これがクイズとして成立する。食い入るように絵の変化を見ていても、それがなかなか捉えられない。
連関と連鎖の中で捉えることと運動の中で捉えることには、かなりの努力が必要になる。
連関と連鎖は、事物についての情報を集め始めると、徐々に見えてくる。一つの事物をさまざまな角度から見始めると連関が見えてくるし、他のものとの関係や比較をはじめると連関の中で事物の新しい側面が見えてくる。事物に対し、そのことについて書いてある本や資料を読むだけで、自分の知らなかった新たな側面が見え始める。これ自体が事物を連関と連鎖の中で捉えることに繋がる。
事物を運動の中で捉えるのは難しいが、事物について運動の痕跡を追いかけるのはそんなに難しくない。社会的な事象でいえば、その事象の歴史を調べれば、その事象がどう運動し、変化してきたのかが見え始める。

弁証法は直感ではない。上に書いたことを把握するためには、事物の研究が必要になる。連関と連鎖の中で捉えるということも、運動の中で捉えるということも、丹念な研究、努力なにしは手に入れられない。連関と連鎖の中で捉える、運動の中で捉えるということを意識すれば見え始めるということではない。弁証法を一知半解的に振り回すと、それは詭弁になる。

同時にもう一つ理解しておかなければならないことがある。
連関と連鎖を正確に把握するためには、その事物を一度は複雑な連関の中から取りだして、分類し、分解しその事物の特徴を他のものと比較研究しながら見極める必要があるという点だ。連関と連鎖を把握するためには、複雑に絡み合った状態から事物を抜き出して、徹底的な分類や分析がまず必要になるというところが面白い(ここにも分類と分析、連関と連鎖についての弁証法的関係がある)。
徹底的な分析と分類は科学の出発になった。現在の人間は、人類の膨大な分類と分析から学びながら、連関と連鎖について考えられる地点にある。白紙の状態で一から始める研究などというのはほとんどない。調べながら事物と事物がどのように連関していくかを把握する方法は、すでに多くの場合情報として存在している。
研究する前には、漠然とすべての事物が繋がっているという認識があるだろう。事物をありのままに見ると、何となく事物が繋がっていることは見えるだろう。そういう漠然とした状態から出発し、事物を一旦徹底的に分析したとことからもう一度全体の連関へと戻っていく中で得た認識が、分析の上に立った連関と連鎖を把握した弁証法的な認識だということになる。これこそが科学への道だ。

科学が発展すればするほど、事物が弁証法的に連関し合っていることが、緻密にかつ豊かに、しかも驚くべき事実を通じて見えてくる。科学技術の発展によって人類は、事物を弁証法的に把握できるところまで近づいていると言えるかも知れない。

弁証法は、全ての事物が一つの物の中に相反する二つの傾向をもっていることを具体的に突き止めてきた。自然科学でいえば、磁石のN極とS極、原子の中の陽子と電子、作用と反作用などもその一つ。マルクス経済学でいえば、商品の使用価値と価値、資本家階級と労働者階級の関係など。一つの物の中にある相反する2つの傾向が、その事物の欠くことのできない側面である例は豊富に存在する。しかしそれらの認識は、地道な長い長い研究によって得られたものが多い。たとえば、原子が陽子と電子によって成り立っているという認識に人類が到達するのに要した時間は、原子という考え方が生まれてからでも1000年必要だった。

ここまでが弁証法の基本的認識の一端だ。
この弁証法は、科学の発展とともに唯物論と不可分のものとして結びついた。弁証法は唯物論と結びつくことによって科学となり、その神秘性を剥ぎ取って、具体的事物の具体的な研究にとって欠くことのできない視点となった。唯物論は、弁証法の基礎になり、物質と精神との関係を鮮明に区別して、物質の反映としての精神を明らかにし、精神そのものも神秘の中から救い出して、精神の基礎に物質があることを明らかにする力となった。
唯物論は、物質と精神の関係を明らかにする上で、決定的な役割を果たした。唯物論の確立によって、物質の反映としての精神とという形で、精神の問題について深く分け入っていく新たな力を人類に与えた。精神の神秘性は、脳科学の発展によって1枚1枚ベールを剥がすようにその実態が明らかになりつつある。
唯物論とは何なのかということと、唯物論と弁証法の関係を明らかにするためには、かなりの論理展開を必要とするだろう。それを書き始めると終わらないので、今回はこれだけの指摘にとどめたい。
今回触れなければならないのは、論理学というものは、当然のこととして人間の思考、論理をあつかうものであり、それは、物質を基礎にした反映としての意識と精神、人間の認識を扱うというものということだ。論理学は、人間の精神全体を論理学が扱うのではなく、人間の組み立ててきた論理が、どのようにして成り立っているのかを明らかにする。この分野の議論には神秘性がまとわりつかない。それほど論理構造というものは、客観的に論じやすいものになっている。

では、弁証法的論理学のことを考えて見よう。
12月25日にカテゴリー論のことを書いた。弁証法的論理学の重要な部分は、このカテゴリー論にある。前回は、
帰納と演繹
現象と本質
原因と結果
一般と普遍
具体と抽象
などのカテゴリーを示した(これらはほんの一例)。

形式論理学と弁証法的論理学の違いは、これらのカテゴリーを唯物論的に弁証法的に捉え直すところにある。つまりは、これらのカテゴリー論を連関と連鎖の中で、運動の中で捉え直すということになった。したがって、弁証法的論理学は、帰納と演繹にしても、現象と本質にしても、原因と結果、一般と普遍、具体と抽象、等々についても、それぞれの関係を相互に研究することとなった。すると形式論理学では把握することのできなかった連関が見えてきて、概念把握が豊かになった。

今回は、原因と結果についてだけ書いて見よう。
原因と結果は、運動の中で見ると相互に転化する。一つの物事の原因は、運動の発展としての結果でもあり、その結果が新たな原因となる。ここに原因と結果の連鎖があり、複雑性があるということだろう。現実の事物は、原因と結果が複雑に絡み合いながら運動している。自分たちの運動の中で一体原因な何かということを探っていくと、なかなかこれが原因だというところにはたどり着けない。多くの場合、これが一つの要因だろうということが見えてくるが、それと同時に他の側面も見えてきて判然としないことが多い。これが原因でこれが結果だというようにシンプルな問題の方がはるかに少ない。シンプルなのか単純なのかという問題は、その事物の具体性による。

うつ病の原因は、判然としないことが多いのだという。どうしてこの病気が発症したのかが、なかなか明らかにならない。それだけうつ病というのは、複雑な要因があるということだろう。これに対し適応障害の方は、しんどくなった原因はかなり明確に分かるのだという。回復には時間がかかるが、適応障害に至った環境が変わると回復への道が開けるという。
不登校になり引きこもりに立った人の回復への道を探るときに、原因にまで遡ることの意味はあまりないかも知れない。回復へのプロセスへの道と原因をさぐることはそんなに深くリンクしていないことも多い。

原因が分かれば対処の方針も成り立つというのは違うだろう。明確な原因があったとしても、それがその後どういう変化の中に置かれているのかという状況把握なしには、対処の方針も鮮明にならない。問題の解決のためには、新しいアプローチが必要になるということの方が多いのではないだろうか。

同時に複雑な状況のもとでも原因となるものが、客観的な法則性をもっている場合、偶然性の中にあってその法則が貫徹していくような原因もある。原因の中には、そういう原因もあるということも忘れてはならないだろう。

今回書いたことは、自分でも不確かだと思われる。はっきり言って底が浅い。それは原因と結果に対する自分なりの探究の弱さ、貧困さに起因するようだ。という形で自分の至らなさを弁明しておきたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明