『イノセント・デイズ』
WOWOWのドラマ、妻夫木聡主演の『イノセント・デイズ』を見た。このドラマの中で最も存在感があったのは、田中幸乃を演じた竹内結子だった。主演は妻夫木聡で、妻夫木聡の熱意によってテレビドラマ化されたという経緯がある。気の弱い臆病な感じの妻夫木聡が演じる佐々木慎一にときどきイラつきながら、次第にこのドラマの結末が見えてきた。
第6話の最終回を見た妻が「後味悪い」と言った。救いがないドラマなのかも知れない。竹内結子さんの演技を見ていると、原作が読みたくなってきたので原作本(早見和真著)を買った。
事件が起こると、テレビや週刊誌は、人物を描くのに思い描いたストーリーに人物をはめ込んでいく傾向があるのだろうか。知人の弁護士は、以前、「テレビで報じられた事件と裁判になって争われる事実とはものすごく食い違っている」という意味のことを語ったことがある。テレビや週刊誌は、事実をどこまで丹念に拾い上げるのだろうか。事実がどこにあるのか、何が真実なのかを探求するのには、かなり労力が必要になる。テレビの前にいたり、週刊誌を読むだけでその事件の真相に迫っていると考えるのは、かなり危険だろう。
「盛る」とか「煽る」とかが当たり前のように行われている世界の中で注目を集めた事件が、「再構成」されてしまう危険性はいつもつきまとっている。事実がどこにあるのかということが大切であって、なぜこういう事件が起こったのかを「理解」し「納得」したいというのは違うだろう。徹底的に事実を追求する中で、最後に控えめに物事を考えるということが大切なのではないだろうか。「解説」や「解釈」や「理解」が前に躍り出てきて、あーだ、こーだというテレビ番組というのは、事実からものすごくはなれていく。
テレビに出ているコメンテーターは、事実を語っているのかどうか。見極める視点の一つはここにある。
『イノセント・デイズ』は、テレビや週刊誌などが描く犯人像と実際の姿の乖離を描いていると思われるが、この作品への違和感は、テレビや週刊誌が描いた犯人像のまま、裁判が進んでいき、世間のレッテルどおり判決が出てしまっているというところにある。弁護士は、世間が描いた事件に沿って裁判を戦ってはいない。これが全く描かれていない。テレビや週刊誌で描かれた事件と本物の裁判がどう違うのかを調べていけば、食い違いはいとも簡単に見えることではないだろうか。
小説へのレビューをAmazonで少し読むと、作品評価が両極端に分かれているのが分かった。評価の低い人人のレビューに共通しているのは、世間の評価通り裁判が進み死刑判決が出たこと、これを田中幸乃という女性が受け入れて死のうとしていることへの違和感なのかも知れない。
一般質問やテーマを追及するときにぼくは、事実から生まれる問題意識、問題意識によって捕まれる新しい事実、新しい事実によって大きく変化する問題意識。こういうことを繰り返して認識を深める作業をしている。問題意識は極めて重要だが、この問題意識は、事実によってどんどん変化するものでなければならない。問題意識の変化は、事物に対する認識の変化でもある。問題意識は、新しい事実を把握する上で重要な力になるが、同時に重要な事実を見落とす誤ったフィルターにもなる。事実にもとづいて問題を考えるということを大切にする必要がある。頑固なのか、それとも柔軟なのかは、事実を素直に受け入れることができるかどうかにかかっている。
『イノセント・デイズ』の原作は半分ぐらいまで読み進んだ。最後まで読んでどういう感想が生まれてくるのか。もう少し楽しみたい。
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