人間は時代を超えることができない。

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夕ご飯といっしょにビールを飲むと、心臓が早鐘のごとく打ち始めた。それといっしょに眠たくなってきた。
目が覚めると12時30分をまわっていた。
妻と娘はまだ2階に上がってこなかった。
1階に下りると妻がお風呂に入っているところだった。
娘は、リビングの背もたれ椅子のところで眠っていた。
2階に連れて行くのに抱き上げると、思った以上に大きく重かった。
時間の経過とともに順調に育っている。もう小さな子どもという感じがなくなりつつある。
ぼくたちの時代の子どもと違って、今の子どもは総じて足が長い。小学校3年生で128センチの娘は、女の子の中で前から5番目。小さい方らしい。しかし、この背の高さは、ぼくの子ども時代の背の高さを確実に追い抜いている。食生活の栄養が約40年前と今とでは違うのか、それとも食品内に蓄積されているホルモン剤が、成長をうながしているのかよく分からないが、違った環境の下で違った育ち方をしているということだろう。
遺伝的要素と環境的な要素の影響を受けて人は育つ。動物の最も大きな特徴は、外界に対して能動的に反応し、育っていくところにある。人間は、すべての動物の中で、最も積極的に外界に働きかけ、外界を作り替え、自身も大きな刺激の中で育っていくという特徴をもっている。
しかし、それでも人間は、時代を超えることができない。世代による人間の違いは、人間が生み出した文明が、人間にどのような影響を与えているのかによって違ってくる側面が大きいだろう。
携帯電話やテレビやインターネット、デジタルカメラ、ビデオカメラ、テレビゲーム、FAX等々が、人間の生活に大きな変化をもたらしつつある。コミュニケーションの違いが、人間関係の違いに大きな変化を生み出す。今はまだ、これらの機器による生活様式の変化が、人間にどのような変化を引き起こすのか、総合的な視点でのまとまった研究には、遅れがあるように感じる。人間は、自分自身が作り出した物に振り回され、時には混乱している。
ぼくたちが育った子ども時代と、今の子どもが置かれている環境は、ものすごく違っている。この環境の違いが、人間にどのような変化を引き起こしてしまうのか、プラス面は何か、マイナス面は何か、この分野の研究が深められて、教育現場にも活かされていくべきだろう。
便利な時代だからこそ、素人にはブラックボックス化しているように見えるハイテク技術をしっかりと理解させる努力も必要だろう。現在の技術は、どのような発見によって支えられているかを子どもたちに伝えることによって、物事に科学的に接近していく土台が培われるということもあるだろう。
ハイテク技術が、その便利さゆえに人間の成長を妨げるという側面も、意識的に研究されるべきだと思う。自分自身の手を使って木工用品をつくるなど、人間と道具の関わりをハイテク技術との対比の中で、習得させギャップを埋めるということも重要な意味をもつように感じる。
便利さを追求してきた中で、人間はさまざまな機器を活用して、物事を実現するバイパスのようなものを獲得してきた。しかし、この変化の中で失われたものも多い。事物の発展のプロセスが、目に見えなくなっていることの弊害はあるだろう。同時に、困難なプロセスを体験しないだけに、さらに前に進んでいけるという良さもあるだろう。
人間が作り出した道具に振り回されている時代から、人間が作り出した道具のメリットとデメリットを十分に理解して活用する時代へ。それは、儲けを追及する物作りから人間の発展に奉仕する物作りへの転換なしには実現しないかも知れない。
いま、必要なのは、発展しつつある文明が、人間にどのような影響をおよぼしているのか、人間は自然を作り替えてきたが、作り替えて生み出してきた環境が、人間と社会に何をもたらしつつあるのか、自然からどのような復讐を受けつつあるのかというような研究だろう。
こういう研究を進めるためにも、市場原理主義は、克服されなければならない。すべてが市場原理によって淘汰されうまくいくというのは、一種の幻想だろう。
人間そのものと人間同士の連帯を大切にして、交流し合うことの方が、市場原理より豊かなものを生み出すことを自覚することが大切だろう。
地域の破壊に抵抗し、再生するためには、人間の連帯が重要になっている。
娘が成長する上でも、人間同士の豊かな連帯、交流が大切だと感じる。


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Posted by 東芝 弘明