日本人の精神史

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歴史に詳しい方でMさんという方がいる。
元高校の先生。
大学教授の専門家と同じような知識を持った方だ。
この方に今日は、神道と仏教の融合の話をお聞きした。
「融合という表現よりも習合という表現を使う方がいい」
こんな話が返ってきた。
「習」という言葉は「襲」に等しく、「襲」には、重ねるという意味があるのだという。
日本古来の神と伝来した仏教とが、融合したのではなく、神は神として、仏は仏としてありながら、重なり共存しあったというのが、「習」に込められた意味のようだ。
古来の日本人は、まわりのものに神が宿ると信じてきた。山の神、川の神、大地の神、海の神、木の神というように。
違う文化を受け入れながら、日本独特の文化に仕上げる様は、まさに文化の融合だったが、神と仏の関係は、習合だったのだという。しかし、仏のような神さんの存在もあるようなので、融合した部分もあったというのも事実らしい。
聖心幼稚園に子どもが通っていた頃、神父である園長先生に、
「長男が多く、位牌を祀っている人が多いこの地域で、キリスト教の信者を増やすのは難しいでしょう」
こう尋ねたことがある。
「信者さんは、仏さんといっしょに十字架を飾っている人も多いです」
これが、日本人の多くの場合のあり方のんだなあとつくづく思う。
白か黒かではなく、白も黒も一緒にいいとこをを重ね合って生かしていく。
ということなのかも知れない。
もしくは、
対立している問題でも、対立させずに矛盾をあいまいにし、共存させ受け入れていく、ということなのかも知れない。
日本人の来し方行く末は、この方向にありなのだとも思うが、最近は、白と黒とを付けたがる風潮が強まっていることを感じる。
勝ち組、負け組しかり。
成果主義しかり。
学校教育の中でも点数で評価され、テストの中でいかにして早く答えを出すかを強いられている。このような教育環境で育った若者の一つの傾向として、答えを早急に出したがる、もしくは答えを早急に求める傾向が強いという。
柔軟に白も黒も赤も緑も受けとめていく日本人の心が、枯れてきているのかも知れない。
何もかも、決定的に敵対している問題でも、受け入れて今日存ずべきだとは思わないが、対立すべきでない小さな事柄については、意見の違いなどで袂を分けることなく、受け入れていく懐の深さをもちたいと思う。
そして、かりに許し難いことであっても、行為や悪行を憎んでも人は憎まないというような、達観した見方を身につけたい。
相手の人格を否定し、亡き者にしようなどというような全面的な否定とは、たたかっていきたいと考える。
そういえば、南無阿弥陀仏の考え方の中には、罪深い人であっても、罪人であっても、極楽浄土を願えば、極楽浄土はかなう。念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願力によってこの浄土に往生するという教えが入っている。
罪を犯し、裁きを受けた人でも許されるというのは、人間の生き方を生涯を通してみるような達観を感じる。
たとえ、この世では許されなくても、あの世では許される。この考え方は、仏教の中でも発生が遅く、12世紀に生きた法然にその出発がある。
民衆の中には、貧困によるさまざまな悪行が横行していた。この民衆の嘆きや苦しみを救うために、お念仏を唱えれば、極楽浄土できるという教えを説いたということなのだろうと思う。
ここにも、日本人の柔軟な心があるように感じる。
宗教は、支配階級のものであり、民衆を支配する役割を担ってきたが、同時に時代が下がるにしたがって、民衆の嘆きを救う方向に発展し、民衆の苦しみを救うためにも存在してきた。
科学が、十分に発展していなかった時代、哲学は、宗教の中に存在した。
ぼくはそう思う。
神道にしても仏教にしても、人間を支え救ってきたものとして興味を感じる。とくに日本の場合、日本人の精神史を学ぼうとすれば、宗教の流れを学ぶ必要がある。
日本人の精神史。この発展の歴史への興味も尽きない。
ところで、テーマは離れるが、現在に目を転じてみるとどんなことがいえるだろうか。
現在、自然科学の領域は、観念論が信じている魑魅魍魎な不思議な説明をはるかに凌駕して、不可思議な現象や事実を説明できるようになりつつある。それでも、自然科学にとって、未解明な不可解な現象は、解明された物事よりはるかに多い。
よく「科学は、現実を割り切って理解するが、現実には科学では割りきれないものが数多く存在する」なんていう言い方がなされる。
しかし、これは、根本的に間違っている。
ニセ科学を含む観念論の方が、実証を投げ捨て、事実に基づかないで現実を説明している。あえていえば、それらの行為は、神をも恐れない所業だろう。
自然科学の方は、推論を立てながら、それを事実の積み重ねによって、一歩一歩解明していく。その終わりのない長い研究は、事物をありのままにとらえ、ゆがんでいればゆがんだ形で、柔軟に理解しようと試みる。
現在の自然科学は、人間が観念論によって積み重ねてきた、不可解な理論よりも、はるかに不可解な事象を、推理小説の謎解きのごとく、ダイナミックに解き明かしつつある。
一例だけあげてみよう。
たとえば、仏教のいう無は、空っぽな空間だったが、宇宙物理学のいう無は、時間も空間も物質もエネルギーもない状態をいう。この4つのものがない関係を明らかにしたのが、アインシュタインの一般相対性理論だった。
アインシュタイン以後、宇宙物理学は(もちろん1つの説だろうけれど)、このまったく何も存在しない、人間が認識できない状態から「ゆらぎ」によって137億年前に宇宙が誕生したという認識を示している。
自然科学は、人間の観念論の領域をはるかに超えて認識を押し広げている。ここまで人間の認識を押し広げてきた力は、事実の解明だった。自然科学は、人間の外界を支配している事実を見失わないかぎり、観念論的な戯言を乗り越えて、不可解にさえみえる現象を解いてみせる。
しかし、これらの解明は、過去の人間の知的遺産をごみ箱に捨て去るようなものではない。人間の歴史の中で導き出されたものの見方考え方には、具体的な事実の解明には至らなかったが、みごとにその法則性を明らかにしてきたものがある。それは、時々の時代の中では、宗教の言葉であったり科学の言葉であったりしてきた。
自然科学は、このものの見方考え方を、具体的事実をもって具体的に語るものである。それは、今まで信じられてきた法則の否定、説明への反論などを含むが、しかし、理論発展の流れをみると、それらの否定は、より一層法則にかなったものとなり、否定された理論よりもシンプルだったりする。しかもそれらは、一般的に語られてきた物事の法則への、より一層豊かな回帰だったりする。
夢みる科学/佐治 晴夫

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Posted by 東芝 弘明