盛者必衰

雑感

3.11以降、多くの方々が、あの震災と原発事故に対し真摯に向きあって、生き方を語っている。3.11以前と3.11以降は、決定的に違っているかのごとく。何かを表現して生きている芸術家、作家、俳優、歌手などの方々には、自分の生き方が変わったというような衝撃があった。
それだけ大きな歴史的事件だった。
多くの人々が震災と震災による津波で命を失い、生活の糧が根こそぎ奪われ、文明や文化が破壊された。

ぼくは、昨年11月、大船渡や陸前高田の中心街に立った。陸前高田の、瓦礫が撤去されたほとんど何もない中心街には、風が吹いていた。
あの震災と原発事故は、確実に多くの人々の生き方を変えた。自然の驚異の前に人間が築いた文明は脆かったのだが、そこから多くの対応が発生した。
自分たちには何ができるのか。
こう考えた人は多かった。

同時に。
政治には何ができるのか。このことも照らし出された。
鮮明にあぶり出された政治は、醜悪だった。3.11以降、政権党を担っている政党の醜さが国民の前にさらけ出された。この政権党を批判して向きあっている元政権党のたたかいぶりも醜かった。
全力を尽くして、震災復興に力を尽くさなければならない政権党は、震災復興を創造的復興と位置づけて、財界の新たなビジネスチャンスとなるように政治を動かした。この復興には、苦しんでいる被災者の生業の再建と生活の再建、コミュニティーの再建が視野に入っていなかった。
生活も仕事も元に戻っていないのに失業給付を打ち切るという対応が、当たり前のように打ち出された。

震災復興の財源確保のために、国民には増税がおこなわれた。その同じ政策として、大企業には大きな減税と小さな増税がおこなわれた。国民への増税は、大企業への減税にかき消されてしまう事態は、見苦しさを通り越していた。

原発事故への対応は、情報隠しに一番神経を使うという情けないものだった。人間の命が奪われかねない深刻な事態が進み、一瞬の事故によって、8万人もの人々が、住む場所を奪われて避難せざるを得なかったのに、政治は俊敏には動かなかった。
除染さえままならないのに。
汚染がどんどん広がっているのに。
時間の経過とともに原発事故の本質が報道されなくなって、情報はより一層隠されるようになった。
福島の被災者の声、避難を余儀なくされている国民の声は、きちんと届かなくなった。現在進行形で動いている原発事故なのに、日本という国は、過去の出来事であるかのように原発事故の姿を伝えなくなった。
そして、浮上してきたのは原発再稼働という動きだった。

政権党は、消費税増税と原発再稼働というこの2つの課題に政治生命をかけて動いている。自分をドジョウだと語っている首相は、泥臭い顔をして消費税増税に「政治生命をかける」といい、原発再稼働に「責任を持つ」と言い放った。
ドジョウは、なぜか震災復興には政治生命をかけてくれない。原発事故については終結宣言をした。
ドジョウの中では、原発事故は過去のものとなった。事故対策は、日々続いているのに「終わった」という宣言は、福島を見捨てる宣言だった。
この終結宣言と原発再稼働は深くリンクしていた。これは、悪魔の宣言だった。

原発事故は、政治と経済の大嘘を国民の目の前にさらけ出した。多くの人が、原発事故を通じて真実を国民に伝えない日本の政治の現実と真剣に向きあった。「反原発」の動きは、大きな政治的うねりとなってわき上がりつつある。
これに対して、政治は、この動きを無視するがごとく再稼働に突き進もうとしている。

危機の時代には、政治の本質が国民の前にさらけ出される。政権党と元政権党は、消費税増税で談合を始め力を合わせようとしている。原発の再稼働では、元政権党は何の抵抗も示していない。
3.11以降、人生観が変わった人がいる一方で、何も変わらずより一層反動的に悪化している勢力が生まれている。

政治と国民との矛盾が、相いれない形で進行しつつある。この矛盾は政治的な激動を生み出さざるを得ない。
3.11の震災と原発事故を無視する勢力は、歴史的な審判を受ける。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ


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雑感

Posted by 東芝 弘明