他人への批判

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20歳代のはじめの頃、人の不十分さについて手厳しい言葉で指摘して、詰問調だった。それが、「もっと人の話を聞け」と言われてから、じっくりと人の話を聞くようになった。そんな風になると相手の不十分さを鋭い言葉でなじらなくなった。
他人を手厳しく批判できる人間なのかどうか。
最近はそういうことをよく考える。
相手を厳しく批判するという行為は、自分にも刃物を向けることに等しい。
相手に対して求めた言葉は、自分にも跳ね返ってくる。
つまり、自分に対して厳しくある場合だけ、相手にも厳しさを求めることができる。ぼくはそう思う。
実際、多くの場合、その人が誤った認識をしているとしても、他人から見て改めるべきだと思われる行動をとったとしても、手厳しく指摘しなくなっている。説教調で相手に話しても、相手がその言い分を受け入れるかどうか、はなはだ疑問だ。
もし、相手に変わってほしいとか、改めてほしいと思っても一回の説教では人間は変わらないと思ってしまう。
厳しく批判されることによって、人間の姿勢が変わることはある。しかし、感情的なしこりが残ったりもする。コンチクショウ、そう思わせることによって行動に向かわせることは、比較的簡単にできる。でも、その場合は、心からそう思って行動するようにはなっていない。そうやって人を動かした場合、その人は変わらないしその人のもつ欠点も改まらないと思う。
テレビドラマなどで、相手が感情的になって迫ってきたときに、新しい事実にきずかされて、ハッとさせられるというシーンがあったりする。そういうことは現実にもあるだろう。
しかし、人が変わるというのは、その人が目的意識的に努力をおこなう過程で何かをつかみ取ったときだろう。
説教はほとんど役に立たない。自己満足の世界なのではなかろうか。


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Posted by 東芝 弘明