学校現場にどうして自由が必要なのか?
トリノさんへの回答は、かなり長くなりそうなので、本文に書いておきます。
教員の事務仕事が膨大に増えています。教育委員会からの調査やアンケートや報告文書がものすごく多いのです。以前、テレビでどれだけ事務量があるのかを、ある中学校の体育館に並べて紹介していました。紹介したのは半年分、体育館に並べられた事務は膨大なものでした。
子どもが抱えている深刻な問題に対応して、話し合いの場をもったり、放課後対応していると事務仕事がこなせないという状況にあります。
報告物には、一体何の意味があるのか、首をかしげたくなるようなことも多く、教員はかなり意味のない作業を押しつけられています。意味のない仕事ほど、人間を腐らせるものはありません。「なんでこんな仕事をせなあかんの?」という思いを抱えて行う事務がたくさんあるということです。
4月当初に教師は、細かな年間指導計画書を作ります。しかし、本当は子どもの実態がまだ十分把握できていない段階なので、詳細な計画を作る意味はあまりありません。この計画書は教育委員会に提出しなければなりません。年度当初の4月は、小学校であれば、子どもがまだ学校に慣れていない時なので、子どもに対する教師の対応が重要ですが、その月は、かなり大変なのです。
和歌山県は、まだこの年間指導計画書にもとづく指導の徹底を求めていませんが、ある県では実施を求めているところがあります。しかし、この計画は次第に現場からずれていきます。子どもたちの状況、クラスの人間関係は毎年毎年違うので、子どもの実態がよく分からないときに作った指導計画書は、机上のプランにしかなりません。
「こんな計画書、意味がありません」
かつて、ある校長先生は、ぼくにこう言いました。意味がないことを現場の教師は感じています。教育委員会が計画書に基づく教育実践を求めれば求めるほど、教育は形骸化していくと思われます。
ぼくは、外部評価制度に関わったことがあります。例えば、校内ドッジボール大会が実施されると、数十項目の観点から成果を数値化して報告することが義務づけられています。こんな事務仕事にほとんど意味はありません。行事をやるごとにこういう細かな採点をして、報告書をまとめて評価資料を作成させるというのは異常です。
臨時にホームルームをおこなって、話し合いを組織すると、「授業時間の確保」に問題が生じます。授業時間の確保は至上命題です。ぼくの地域の小学校は、今年、大雨による警報などで、臨時休校になることを見越して夏休みの開始を遅らせました。
いじめ問題を解決するためには、クラスでの話し合いや学校全体での取り組みが必要です。しかし、このような取り組みを行うと、授業時間がつぶされます。一つのクラスの問題に他の教師が関われば、ものすごく迷惑をかけるのです。
いじめられた子といじめた子の問題として個別に対応する、他の子どもたちはいじめに関係がない、この子どもたちの問題によって、他の子どもに迷惑をかけられないという意識も強く働いています。
「いじめ問題によって、授業を遅らせる訳には行かない」ということです。
このような状況のもとで、教師がいじめを発見しても、見て見ぬふりをする状況が生まれています。もちろん、必死でがんばっている教師もたくさんいます。しかし、見て見ぬふりをする土壌があるということが問題なのです。
かつらぎ町も例外ではありません。学校現場は年を追うごとに忙しくなっています。事務仕事が増え、子どもの関わる時間が奪われれば奪われるほど、学校の機能は低下します。
新しい教育基本法によって、教育委員会は、平気で学校現場の教師を直接指導するようになりました。しかし、この方向は、前の教育基本法が明確に否定していたものです。ここにも大問題が横たわっています。
教育の主人公は子どもです。子どものために教師が直接自主的に関わって豊かな教育を実践するところに、戦後確立した教育の原点があります。教育委員会──校長──教職員という上からの指導体制が強まれば強まるほど、子どもを主人公とした教育は失われます。
学校は生産現場や会社経営とは違います。生産の意思決定や会社の事業計画に基づいて仕事を行うシステムで学校運営を考えるべきではありません。しかし、「教育改革」と称してこういう傾向が強まってきています。
学校の意思決定者は校長になっています。職員会議は校長を補佐する機関であり、校長以外の教職員には決定権がありません。最近では、校長、教頭だけでなく中間管理職まで組織しようとしています。PDCAというサイクルが、学校現場にも持ち込まれていますが、このサイクルは、いとも簡単に子どもが主人公だという視点を欠落させてしまうものです。プランを立て、行動を起こし、チェックして改善を図るというサイクルは、子ども不在の教育計画を生み出しかねない危険なものだと思います。
子どもの教育を受ける権利を保障するための学校の組織運営とは何なのか、という原点から学校運営のあり方を考え直す必要があります。上から管理・統制を強めるのではなく、子どもの立場に立って、子どもの教育を受ける権利を豊かに保障するために学校をつくるということが大切です。これは、子どもを中心にして、いわば下から学校運営を形成していくことを意味します。
子どもを中心におくために、学校では教職員の同僚性が一番大事な原則になります。すべての教職員が対等平等の立場に立って、子どもたちのためによりよい教育を目指すということです。一つの有機的なチームとして、教職員の自主的自発的な力によって子どもを育てるべきなのです。
この間の教育改革は、学校現場における同僚性を壊して、管理と統制を徹底的に強めるものでした。この歪んだ「改革」が教育を破壊してきた一つの元凶です。
かつらぎ町の教育委員会が不出来なのではなく、日本の教育行政が徹底的に管理と統制を強めてきた結果、極めて異常な状況が生まれているのです。
大津市の事件は、特殊な事件ではないと思っています。それだけに、なぜ教育現場がいじめを見逃したのかを具体的に明らかにしなければなりません。
和歌山県は、自治体独自の教育行政をほとんど認めてきませんでした。他の都道府県が自治体独自の少人数学級を作る方向に足を踏み出しているのに、和歌山県教育委員会は、市町村の教育委員会に「助言」を行って、少人数学級を作ることを許しませんでした。これはまるで軍隊のような体質です。
このようながんじがらめの中で、学校現場には自由がなくなりました。狭い囲い込まれた文化の中で管理と統制が徹底されています。学校が世間から隔離され、上から徹底的に管理されるという状況のもとで、子どもたちにも同質性がものすごく求められるようになりました。人間集団は、徹底的に管理すればするほど、人間を枠の中に囲い込むようになり、はみ出す者を許さなくなります。
教員に自由を保障することと、いじめの土壌をなくすことは、密接不可分につながっていると思います。
東芝さんの教育の自由は、都合のいい自由にしか過ぎない。責任なき自由・・・要するに教師の仕事を楽にしただけ。考えが明らかに間違っています。
じゃあお伺いしますが、この前の和歌山県立高校の学区制の件は?現状は全県一区で中学生が自由に選べる。まさに能力に合わせて高校を選べる。それを肯定するの?この前批判してたでしょう?
ダメですよ・・・詭弁です。都合のいいことだけ自由論を持ち出し、都合の悪いことには規制論を出す。ただの反対論です。
トリノさんの自由についての話は、自由とは何かを考える上で興味深いですね。確かに学区制の撤廃は、選択の自由の拡大です。しかし、定員枠があるので、必然的に競争が組織されます。競争をこのような形で組織すると、自由ではなくなります。
自由とは、何が重要なのかを教師の責任で選択し決定するということです。こういうことをしている国はアメリカです。アメリカには教科書がありません。中学校、高校はのびのびしています。中学校にはクラブ活動がありません。大学入試は、高校の総合評価によって決まります。大学は厳しいです。レポート提出など、出席して単位をとる努力をしないと卒業できません。
教育の自由という点で、アメリカの教育は参考になると思います。
東芝さんの自由は、本当の意味の自由ではありません。例えば、かつらぎ町に2人の中学生居たと仮定します。1人は、成績が良く高校でももっと勉強したいと思っている。もう1人の方はあまり成績が良くなく、高校でもできたら勉強をしたくないと考えています。現状の全県一区の場合、一人が橋本高校にもう一人が笠田高校に進学。それが機会の平等であって、当然結果の不平等になります。もちろんがんばって橋本高校に行くために競争が生じます。
じゃあ東芝さんの小学区制を採用した場合、2人とも笠田高校に行くことになり結果の平等です。が・・機会の不平等になります。だって成績のいい人は成績の悪い人とおなじレベルの授業を受けなければいけない。また結果が同じなので競争も発生しません。
和歌山県教育委員会は「機会の平等」を選択しただけです。当然競争が発生します。東芝さんのような「結果の平等」を選択した場合競争は発生しません。が・・・機会の不平等が発生し、成績のいい人には非常に不利益になります。それだけのことです。
かみ合わないかも知れませんが、少し違った角度から書かせてください。日本の教育の基本は、競争の組織にあると思っています。しかし、これは、本当に学力を向上させるのでしょうか。
ぼくの持論でいえば、高校卒業までは競争を組織する必要がないと思っています。高校卒業の18歳までを義務教育にして、国民にとって必要な欠くことのできない教養、知識、思考力、批判力、この上に立った想像力と創造力などを身につけながら、人格の完成を目指して理知的な人間を育成するようにすればいいと思うのです。
したがって大学は、アメリカのように一定の学力があれば自分で大学を選択できるというようにして、一発試験をなくせばいいと思っています。このようにすれば、受験競争はなくなります。塾もアメリカのように必要なくなります。
大学は、自ら積極的に学ぶということを基礎に厳しくしていいと思います。アメリカでは、単位を所得できなければ落第が当たり前、退学も当然です。学ぶことの意味を18歳まで徹底的に培っていけば、大学は学ぶための存在になります。
なぜ、日本はアメリカのような教育体系をもたなかったんでしょうか。ここにぼくの疑問がありますが、同時に勉強不足もあります。
学ぶことの本当の意味を人間の中に培うためには、競争は邪魔者になります。人間の内発的な発展、内発的な育成を培うためには、点数による成績で学習意欲を生み出すのではなく、知的好奇心、人間の向上心に依拠して、学校を作りかえる必要があります。
デンマークもフィンランドも同じような考え方で学校が運営されています。アメリカもこの流れの中にあると思われます。
これら3つの国は、大学が内容としても難しくなっています。一番水準が高いのはフィンランドです。高校を出て大学入試試験に挑戦しても合格しません。専門的な知識を大学入試で問うので、社会人としてのキャリアと学習がなければ、大学に合格できなくなっています。
日本の大学は、学問を徹底的に追及する機関ではなく、かなり歪んでいます。受験競争は就活競争に連動し、この連動が強まるにしたがって、大学そのものが形骸化しています。
本当に豊かな人間を育てたいのであれば、義務教育(ぼくの個人的な見解でいえば高校まで)から外的な競争を排除すべきだと思うのです。その方が学力は向上すると思います。
自由に戻っていえば、高校まで学校を自由の中に置くというのは、競争を徹底的に排除するということです。人格の完成を目指し、理知的な人間の育成のために学校を再編成すると豊かな人間が育ってくると思うのですが、いかがでしょうか。
ぼくはこれを夢物語だとは考えていません。アメリカやデンマーク、フィンランドやヨーロッパの各国では実際に、バリエーション豊かに実現していることです。学校に自由を。本当の学力向上の保障を。ぼくはそう考えています。
東芝さん、日本の教育の根本的改革論を論議しているのではありません。現状の教育制度上で論議お願いします。東芝さんは「いじめ問題」は教育の自由化だと主張しました。僕はそれはおかしいじゃないの?「高校選択の規制」を主張しながら、どうして教師だけに自由を与えるのか?と問いかけているのです。そこで高校までは義務教育と言われる反則です。そんな論理が通用すると何でもありになります。東芝さんの意見は、僕から言わせるとただの制度批判です。成績を例にとって問いかけしましたが、高校のクラブでもいい。かつらぎ町の高校で将棋をしたいと思っている中学生が居たとします。でも笠田高校には将棋部がない。でもどうしても将棋がしたいので将棋部のある県立高校に進学・・・・その自由を東芝さんの小学区制の場合奪うことになる。
つまり、東芝さんの意見は特定条件の中学生を喜ばせるだけで、別の条件の中学生には不利益になるということです。
同じように、教育の自由化はその副作用もあるということ。
また、教育の自由化を主張し・・・中学生の選択の自由を剥奪・・・そりゃ~虫がいい論理です。
現状の制度の上でも、学校現場に自由は必要だと思っています。トリノさんがいうように、全県一区の学区制になっているので、受験競争は強まっていますが。責任なき自由ではありません。「学校現場に自由を」というのは、教育を子どもの前に立つ先生の自主性、自発性にまかせて行おうというものです。アメリカ方式です。高校の選択制が一方でのこりながら、同時に学校に自由を保障するということです。
もちろん、厳しい受験競争のもとでの自由ですから、教員は、受験競争に対応した教育を選択せざるを得ません。それは当たり前のことです。
「教育を子どもの前に立つ先生の自主性、自発性にまかせて・・・」
それを実行すると、結果として教職員の能力差が表面化することを意味します。つまり教え方が上手い先生と下手な先生の結果が、クラスの学力差となって必ず見えることになる。そしてどうなるか?何らかの形で教職員の選別やランク付けになりますよ。公にランク付けされなくても、PTAの噂や評判となって、必ずその能力差が評価されることになります。教職員の仕事に対する競争を認めることです。
「機会の平等(自由)」を認めると必ず「結果の不平等」が発生します。また「結果の平等」は必ず「機会の不平等」を招く。
学区制についてもつまるところ同じです。小学区制を採用しても笠田高校内では、成績のいい人と悪い人が必ず居ます。でもそれが外部からは見えないだけで学内では存在するのです。全県一区はその見えなかった学力差が高校間格差となって現れるだけで最終的には同じものなのです。
東芝さんの教職員に「自主性、自発性」を持たせることは、今まで見えなかった教師の能力差を表面化させるだけ。そしてそれではいじめの問題解決になんら意味がないということです。
今回の大津の問題は、第一に保護者、そしてそのいじめを認めようとしない校長と教育委員会にあります。
東芝さん、議会の質問で教育長に質問されたらどうです?「かつらぎ町では過去にいじめ問題がありましたか?」とね。答えはたぶん「ありません」でしょう。その答えに対して「もし、いじめ問題が発生したらどう対応するか準備できていますか?」それに全うな答えがあればよくできた教育委員会。答えられなければ・・・福島の原発と同じ、津波を想定しない・・・・いじめ問題を想定しない・・・いじめがあってもそれを認めない。
という体質です。
大人になるとよく分かりますが、仕事でも地域社会でも人間同士のコミュニケーションが、すべての基礎にあって物事が成り立っているということです。コミュニケーション能力を培うところに教育の基礎をおかなければなりません。
競争ではないのです。
学校現場に自由を与えるというのは、自由競争を求めるのではなく、教師による共同の取り組みによって、つまり学校の教師集団によって、子どもを育てるということです。戦後、日本の教育現場には、このような意味で一定の自由が存在し、同僚性に基づく教師の団結がありました。教師は、子どものことを職員室で話題にして、実によく教育実践のことについて話し合っていました。そういう中で若い教師が育っていました。学校の外のつながりも深く、伊都郡では、教員の自主的な研究サークルがたくさんありました。
教員同士の学びあいが広く存在したということです。これが、全くなくなった訳ではありませんが、学校が多忙化している中で、交流することの困難が増大しています。
子どもの姿を見つめ、お互いに力を合わせて学校運営に取り組んでいくためには、教員に自由が必要です。競争ではなく共同こそが必要です。
それは、子どもたちにもいえます。子どもたちの中に競争を組織するのではなく、共同を組織することの方が、生きる力になります。
スポーツの競争はいいです。ルールがあるもとでの競争ですから。ただし、勝利至上主義はおかしいと思います。子どもはスポーツを楽しむ権利を持っています。成長過程にある子どもたちにスポーツの楽しみを教えるなかで勝利する喜びを教えることが大切です。
中には、イチローのような才能のある子どもがいます。そういう子どもには特別のコーチが必要でしょう。しかし、すべての子どもが、誰でもイチローのような才能を持っている訳ではありません。
天才的な能力を伸ばすという点では、学校の勉強でも同じです。天才的な能力をもった子どもは、ごくまれに存在します。そういう子は、どんどん自分で吸収します。親や先生がそういう子どもの能力に気付いたときには、その子の能力を伸ばす教育をすすめることが大事ですね。
しかし、それは学校の目的ではありません。義務教育は、すべての子どもたちに、社会人になるにあたって、一定の欠くことのできない知識と教養、モラルなどを身につけるために存在しています。義務教育の目標をこういうところにおいている国は、資本主義の中に存在しています。
デンマークがそうです。デンマークでは、15歳の義務教育終了時に到達度テストがおこなわれ、合格ラインに達しない生徒は、もう1年義務教育が延長されます。日本でいえば留年ですが、デンマークでは、一定の学力を身につけるための措置として、合意があるということです。
日本の義務教育は、人格の完成を目指すところにあります。理知的な人間を育てるということです。国民として身につけるべき教育内容というものは、国民的な合意で形成する必要があります。それは戦後の教育の中で確立してきたし、確立できると思います。
これは、結果の平等を求めることになるかも知れません。結果の平等を求めるためには、時間が必要です。競争に打ち勝て、競争についてこい式では、うまく行きません。
地元の中学校には、昨年も深刻ないじめが存在しました。学校がそれを認めていたかどうかは、聞くべきだと思います。認めないかも知れませんし、報告は上がっていないということかも知れません。
この点では、トリノさんの認識と一致しているように思います。
なぜ学校でいじめが隠蔽されるのか。
ここには、深刻な現実が横たわっています。いじめ問題に対応するためには、教職員の中に同僚性が必要です。共同でいじめに取り組むためにも、自主性、自発性が必要です。こういうものが奪われていることが、いじめの隠蔽体質とリンクしていると思っています。
教職員への管理と統制が強まっています。橋下さんの教育改革と和歌山県の教育改革は、程度の差は極端に大きいものですが、目指している方向は、全く同じです。つまり同一の直線の長さの違いだけです。上から一つの考え方を押しつけて強制すると、それからはみ出すことを許さなくなります。異端者は排除されます。教職員の中にこういう考え方が広がっています。いじめの土壌が教職員の中にあるということです。管理職によるパワーハラスメントは増えています。
こういう学校が、子どものいじめ問題に真正面から対応できるでしょうか。
教職員の側の問題を書いたのは、こういう問題意識からです。