茂野嵩さんと田畑正宏さんを偲ぶ会

雑感

日本共産党和歌山県委員会の元県委員長であった茂野嵩さんと田畑正宏さんを偲ぶ会が開催された。
茂野さんは、24年間日本共産党和歌山県委員会の県委員長を務められた方だった。田畑さんは、この茂野さんの懐刀として長く副委員長を務められ、茂野さんが党中央の幹部会委員になって県委員長を退任したときに、県委員長を2年間勤めた方だった。

茂野さんは非常に野太い、スケールの大きな政治家だった。ぼくが18歳で党に入党したとき、茂野さんは県委員長だった。入党が1978年だったから茂野さんは、すでに60歳だったことになる。85年4月まで県委員長だったということだから、ぼくの知っている茂野さんは、839票で惜敗した野間友一さんを1979年トップ当選で返り咲かせることに最大の貢献をし、以後連続当選させてきたときの県委員長だった。
この人の演説は、抜群の説得力があった。
人前で話をするときには、いつも徹底的な準備をしていたという話を聞いたことがある。赤旗を丹念に読み、演説に生命力を吹き込むために丹念に準備することによって、説得力は生まれていた。
もちろん、ぼくなどは茂野さんの足下にも及ばない。しかし、多くの人々に貴重な時間をいただいて話を聞いてもらうのだから、演説の準備に時間をかけるという努力は、茂野さんから教えてもらったものだったと思っている。
30歳で議員になってから茂野さんに会ったことがある。
「一地方議員で終わったらあかんで」
茂野さんはこう言った。
この言葉の途上でぼくはまだ活動している。

学生の時に和歌山大学教育学部の古い校舎で、茂野さんの講演を聞いたことがある。
話は、哲学に及び、量から質への転化の話を自分のはげ頭を例にしてくれたことが、強烈な印象として残っている。話を聞くたびに、心の底からやる気になった。人々を心底、鼓舞激励する演説は、和歌山県党の宝だった。
茂野さんは、1918年生まれ、享年92歳だった。

田畑さんとの付き合いの方が、深く濃かった。この人は、穏やかな物言いの中に鋭さがある方だった。茂野さんがナタなら田畑さんは実務面でも徹底的に正確に詰め寄り、仕事をやり遂げていくカミソリのような感じがした。
ぼくたちは学生時代、この一歩も引かない田畑さんのことを「鬼の田畑」と呼んでいた。
ぼくは23歳で党の専従となった。ぼくを説得したのは茂野さんだった。
田畑さんは、副委員長の時代からよく紀北地区委員会にも指導に入っていた。
田畑さんが、紀北地区委員会に来て会議をした後、事務所のとなりにあった喫茶店でコーヒーを飲んだことがあった。
ぼくは、週刊少年ジャンプなどの漫画を4冊ほど抱えて席に着こうとした。
すると田畑さんは鋭く一言、ぼくを叱った。
「こら、何を読むんや」
鋭い眼光だった。しかし、次の瞬間、顔を崩して優しく笑った。
ぼくは首をすくめ、ほっとして席に着いた。

県委員長を引退されてから田畑さんは、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の組織を作るためによく紀北にも足を運んでくださった。ぼくは何度か和歌山まで田畑さんを送っていったことがある。引退後は水墨画をはじめられたという。「庭の石を見たい」という田畑さんを案内して一緒に石を見たこともあった。
田畑さんは1925年生まれ、享年87歳だった。

偲ぶ会は、お二人の人柄が紹介される明るい会になった。2人ともレッドパージで公職を追放され、いくつかの職を経て和歌山県党を支える党の専従職員となった。戦い抜いて生き抜いた2人の人生は、ともに活動してきた人間に生き様を示すものだった。
「この2人のあとに続こう」──これがお二人に対する共通の思いと決意になった。
このお二人が築いてきた努力の上にぼくたちがいる。

茂野さん、田畑さん。ご冥福をお祈りします。


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雑感

Posted by 東芝 弘明