社会保障を国家予算の主役に

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後期高齢者医療保険制度。
75歳以上のお年寄りを一般の医療制度から隔離して、後期高齢者というネーミングのもとで、囲い込み、すべての人から保険料を徴収する制度が4月から発足した。
差別的な医療制度だと思う。
保険料は、2年ごとに見直され見直される度に値上げされていく。医療費についても包括医療払い制度を導入し、露骨に医療費を抑制するというねらいをもっている。
4月から始まった医療制度では、この包括医療払い制度がうまく機能しないような見通しになってきた。
主治医を選定した人は、包括医療払い制度が適用され、主治医を選定しない人は出来高払い制度のままという運用になったので、主治医をつくることを拒否する流れが強まるというのが、当面の見通しだ。
日本は、高齢化社会を敵視しているような動きをしている。
高い保険料を確保するために本人に負担をかけるのに、本人所得だけではなく、世帯の所得に着目して保険料を取るという制度になっている。
徹底的に個人負担を求めるのであれば、個人の所得にのみ着目するのが筋だが、世帯の所得に着目するところに日本政府の汚さがある。
「この制度は言い制度なんですがね」
こんな発言をした大臣がいたようだが、国民の苦しみを理解できないようになりつつあるということだろう。
ヨーロッパの多くの国は、高齢化が進む中、国家財政を社会保障に大きく振り向けた。日本は、戦後つくってきた予算の枠組みを変えないという方針の下で、社会保障費の抑制政策をとってきた。
年間自然増を2200億円抑制するという方針は、国民の負担を増大させるものになっている。高齢化が進む中で、高齢化人口が増大している。
政府は、団塊の世代が75歳以上になる10年後をターゲットに後期高齢者医療制度を導入したが、これはヨーロッパがとった政策とは、まったく正反対のものだった。
現在、問題になりすったもんだの議論になった道路特定財源も、国民が納めた税金を高齢化社会のために活用するのか、それとも今まで以上に道路建設につぎ込むのかということが問われている。
社会保障を国家予算の主役に。
働く人々の賃上げを。
この2つの方向が、日本を再生するカギを握っていると思う。
日本の政治は、歴史的に見ると大きな曲がり角のさしかかりつつある。小泉内閣以降の構造改革は、この歴史の曲がり角を曲がりたくないというたぐいの、改革という名の暴走だった。この改革は、国民の期待を背中に背負ったが、実現したのは国民の負担増と生活苦だった。
あの改革で儲けをあげたのは、巨大な独占企業だったが、この企業の儲けは、働く国民からの所得移転を土台にしたものだった。収奪を基礎とした資本の蓄積。しかし、こんなやり方を続けるのは、企業存立の基盤を自分で堀崩すものだったといえる。
政治も経済も行き詰まりを見せている。
しかし、自民党の方々を見ていると、どうも時代認識に欠けるのではないだろうか、という疑問をもつ。
国民の怒りを理解せず、貧困と格差の拡大を肌身で感じられず、のど元過ぎれば熱さ忘れるかのような認識で、現在の怒りも、やがてはほとぼりが冷め、選挙になれば相も変わらず自民党を支持してもらえるという楽観ムードを感じるのだ。
戦後の日本は平和ぼけというような批判があるけれど、自民党の危機感のなさは、戦後政治における与党ぼけのような状態なのかも知れない。
「何もかも行き詰まっているような感じやね」
服飾関係のお店の奥さんがしみじみとそう言った。
「国民はみんな誤魔化されとる」
薬局で出会った50代の男の人は、ぼくに声をかけてこういう発言を繰り返した。
「自民党政治は崩壊するしかないですよ」
ぼくはそんな答えを返している。
「道理がとおる日本をつくる」
ここに日本の未来がある。
誤魔化しの政治はもういらない。


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Posted by 東芝 弘明