友人たちとの飲み会

出来事

Felt houses by Craft & Creativity

昨日は、友人との飲み会があった。笑いすぎてしんどいくらいだった。
「見てるで。シバの書いたやつ。幼稚なこと書いとるなあ」「社会のことがわかってないなあ」
「東芝君の書いてるの、時々見てるよ」
というような発言もあった。
書き続けていると、読まれていることも多いということだ。
感想はいろいろ。評価がくっついた発言にはどっきりするが、率直に意見を言ってくれるので面白い。赤くなったり、青くなったり。胸の中で信号機が明滅する。

ぼくのBlogの延々と長い、理屈っぽい話は、「途中で読むのを止めた」という意見が多い。理屈っぽい話を休憩して、ときどき、身辺雑記を書く。でも家族のことをリアルに書きすぎると、「家族のことは書かんといて」というクレームが飛んでくる。
Blogに自分の胸の内を全て赤裸々に書くことはできない。「悲しかった」「恥ずかしかった」「腹が立った」「こんちくしょう」などの感情の中には、固有名詞と密接不可分にからんでいるものが多く、書くと問題が発生するものがある。

太宰治に「人間失格」という小説がある。この小説には、主人公が日本共産党に関わって、地下活動に入り協力する話が出てくる。本当の太宰は、日本共産党に入って転向し、ずっと負い目を負っていた中でこの小説を書いたらしい。自分の内面をえぐって「人間失格」という形で世の中に出してみせるという心情には、ものすごいエネルギーを感じる。「人間失格」には、多面的な側面があるけれど、その一つのテーマは明らかに挫折にさいなまれている太宰自身の自己否定が含まれている。
小説という形であるならば、自分の内面をえぐり出して表現するという仕方ができるのだろうか。
「人間失格」という自己否定の小説は、10代の青年にとっては、強烈すぎて恐ろしい。読んでしまえば、突き離そうとしても離せない生々しさがある。

中学校や高校時代の友人と一緒にお酒を飲んでいると、色々なことが思い出されてくる。夏に行われた同窓会のときは、10代の頃の感情がよみがえってきた。母を亡くして孤独感が底流に流れていたときの感情は、かなり感傷的なものだった。
結婚して家族ができ、娘が生まれ、毎日が安定したことによって、感傷的な感覚が忘れ去られているのだけれど、かなり長い期間、自分を支配していた感情は、綺麗さっぱり忘れ去られたものではなく、自分の歴史的な体験の中に密かに折りたたまれているようだ。人間と人間との関係の中で、存在していた感覚や思いは、昔過ごしていた空間が何らかの形で再現されると、ときに縛っていた紐がほどけて、本を開くように展開していく。ぼくが寝起きしていた家が再現されたら、もっと色々な思いが溢れてくるだろう。そういうことが思い出されると、今だからこそ見えてくるものもあるかも知れない。

昨日の飲み会は、楽しかった記憶が紐解かれたので、夏の同窓会のような感情がよみがえることはなかった。10代や20代の出来事を題材にして、小説を書いてみたいと思っている。日記を書くことは、人生を2度生きることに等しいという話がある。小説という虚構の中で自分の体験をモチーフにして描く行為は、人生を2度生きるというような生やさしいものではなくて、自分の生きてきた道を問いなおし、えぐり出すということになるのかも知れない。
旭爪あかねさんの小説に「稲の旋律」という作品がある。この作品は、大学院に通いながら次第に引きこもっていく女性が、農業に触れる中で再生していく話として描かれている。この作品の題材は、本人の体験によっている。作家は、どのような思いで自分の負とも呼べるような体験を作品化するのだろうか。この小説は多喜・百合子賞を受賞した。小説が注目を浴びると当然批評が行われる。この批評は、書いた作家本人にとっては、自分の生きる姿勢への論評という意味をもつ。
一つ一つの批評は、おそらくものすごく深く胸に突き刺さるだろう。
それでも、自分の体験をモチーフにして、作家は作品を世に出していく。

この恐ろしい世界に、いつか足を踏み出したい。飲み会から書き起こすと、脱線してこういうことを考えてしまった。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

出来事

Posted by 東芝 弘明