20%の必要悪?

未分類

ごみの問題は、あと1回、後半部分を書かないと完結しない。が、今日はこの問題を本棚にしまい込んで、別のことを書く。
友人と電話で話をしていると、「20%の必要悪」という話が目の前に差し出された。会社の中でリストラを進め、20%あったムダを省くと、再び20%の非効率な部分、つまり人間、が発生する、この20%の非効率な部分は、社会の中でも必要悪であって、どうしてもなくならない、こういう話だった。
20%という数値の根拠には、分からない部分があるが、なるほど、と思うところがある。
問題はここから。「この20%の必要悪はどうしてもなくならないのか」──これが友人の問題提起だった。
それから数日が経った。
まったく別のことをさまざまにおこなうのが日常。この問題を考えていたわけではない。事務所の敷地を入ったすぐ左手に白い作業小屋がある。その中で新聞をさわっていると、「20%の必要悪」の話に天啓のごとく考えが光の筋を引いて、目の前に立ち現れた。
会社のような組織で、人間が同じ方向に向かって競争させられていると、優劣がどうしてもつき、20%の必要悪が発生してしまう。競争は過酷だから最下層に位置する人々は、下を見ることができなくなって、ビンの底のように、はるかに高い上空の小さな口の穴を眺めるようになる。これは、誠に面白くない。張りもなくなる。リストラをおこなって、非効率な人間を排除しても、やはり優劣がつき、最下層が生まれる。このシステムが、20%の必要悪の原因だろう。
問題は、「20%の必要悪が生まれないことはあるのか」ということだ。
答えは「ある」。そう思う。
画一的な目標を設定し、競争を組織すれば、20%の必要悪が生まれるのだから、(1)画一的な目標を設定しないで、(2)競争を組織しなかったら20%の必要悪は生まれない。
「みんなちがって、みんないい」社会をつくれば、ビンの底に溜まる最下層は生まれない。
小学校の子ども達を見ていると、ピアノのできる子が運動が苦手だったり、絵が上手な子が勉強が苦手だったりする。国語好きなのに算数嫌いだったり社会が好きなのに理科が苦手だったりする。
大事なのは、競争を組織せずに子ども達の能力を、物差しを当てるように評価しないこと。なのではないだろうか。
人間のよい面、物事に夢中になれる面を発見し、それを伸ばすようにしてあげれば、それぞれの人間は個性的に、さまざまな花を咲かすようになる。面白いことに赤いバラの花のような、光る側面がその子の中に宿るようになると、光がまわりを照らすように、他の面も伸びる、ということだ。物事は、納豆のように繋がっているので、一芸に秀でたもの、多芸に通ずるように変化が起こる。
その際、宝石のごとく大切なのは、一芸に秀でるあり方だ。本当に一芸に秀でる人は、その道を究めるためにその道を豊かに広くする。一芸に秀でるためには、教養豊かに幅広く学び、一芸の関連性を十二分に把握して、自分の中に取り込んでその道を豊かに発展させるのだ、そうすれば、その一芸は、多芸に通ずるようになり、その人の可能性は、千手観音と同じ触手をもって広がる。
イチロー選手の話を聞いていると、哲学的な言動がたくさん出てくる。イチロー選手は、哲学の本を読んでいるだろうと思う。哲学と野球は深く結びついている。ぼくは勝手にそう思っている。もし、イチロー選手が哲学の本を読んでいない状態で、あのような境地を開いているのであれば、哲学の本を読めば、もっと高みに彼を導くだろうという気がする。
他人との競争の中で個性が伸びるのではない。自分との闘いの中でこそ個性が伸びる。目標は相手に勝つことではない。自分の限界を見つめながら、可能性を伸ばし限界点を突破するような目標設定こそが、個性を伸ばす。オリンピック選手をみていると、目標を金メダルにおき、それだけで情熱をかき立てようとしている人、金メダル獲得は、一つの目標だがそれは通過点のようなもので、自分の可能性への挑戦こそが目標だというような人がいる。棒高跳びのブブカ選手は、そういう人だった。ハンマー投げの室伏さんにもそういう匂いを感じる。スピードスケートの清水選手も、このような目標の持ち方をしていたようだ。
イチロー選手のインタビューを聞いていると、記録達成が目標ではないことがよく分かる。
教育の中でも社会の中でも競争が組織されないで、人間の豊かな個性と可能性を伸ばすことが、教育や社会生活の目標になれば、20%の必要悪は生まれてこない。一つの物差しで測らないような多面的視野をもったものの見方考え方によって支えられた社会。そういう社会ができれば、人間は幸せになる。
教育に、やはりこのような社会をつくる未来を託す、それが大事ではなかろうか。
教育の中で、次第に受験の色合いが濃くなり、教科の中で国語、数学、理科、社会、英語が次第に比重を高め、この5教科の成績が、人間を計る物差しになり、この5教科で成績の上がらないものは、ドロップアウトしたかのような見方になる。教育の貧困、ここに極まる。
教育の目標は人格の完成。5教科の成績を伸ばし、国公私立の有名校に何人合格させるのかが目標ではない。こういう教育のあり方を転換しないと、「20%の必要悪」はなくならない。
企業の中で、「20%の必要悪」を克服しがたいのは、組織の目標が設定され、競争を組織してしのぎを削るからだろう。多くの企業では、しかし、こういうことは避けがたい。資本のあくなき蓄積が目標なので、競争相手は世界。限界は資本の設備や原料なのだから。
こういう競争のただ中にある企業は、「20%の必要悪」を克服するために、健康を害してダイエットを続けることになる。このダイエットには救いがない。
スタジオジブリの鈴木敏夫さんのように、映画は作成費を回収できたらいいや、といっているのが大切で、もうけてやろう、というような映画作りになったら、20%の必要悪が生まれてくるだろう。
「儲けたいのであれば、映画なんか作っていませんよ」
いい言葉だと思う。この鈴木さんの言葉は、ジョージ・ルーカスとの対談で最近語られたもの。ルーカスも同じ考えだったらしい。2人は爆笑していた。
日本の教育の世界で組織されている競争は、人間の個性を無にするようなもの。最近、人間の考え方にまで物差しをあてて計ろうとしている。愛国心、君が代。この価値観の押しつけは、人間の個性を殺す。
日本人の好きな幕末の藩士達は、江戸幕府倒幕に情熱を燃やし、明治をつくった。江戸幕府への忠誠が愛国心の具体的な形だったのであれば、倒幕の志士たちは、国賊だったということだ。だからこそ、坂本龍馬は暗殺された。ということだ。
ただし倒幕の志士たちは、愛国心の持ち主だったという見方もなりたつ。
江戸幕府よりもよりよい社会をつくりたいという点で、真の愛国心を発揮した。この真の愛国心は、倒幕を求めた。ということだ。
日本共産党は、戦前、戦争反対を主張したために、国賊・非国民というレッテルを貼られ、弾圧された。日本共産党は、絶対主義的天皇制を打ち倒して、国民が主権者になる社会、男女平等を実現し、18歳以上の普通選挙権が実現する社会をめざした。
だから、真の愛国の党だった。そういっている。
日本社会が嫌いな人もいるだろう、外国に出て自分の能力を伸ばしたいと思う人もいるだろう。国を愛する心は、その人の自由意志の領域に属する問題。国が立ち入ってはならない個人の領域。国の愛し方は千差万別。それこそ「みんなちがって、みんないい」。
一つの物差しで比較し比べたら、愛国心の問題でも「20%の必要悪」はなくならない。この20%の必要悪を敵視する国は、ヒットラーのドイツとそんなに変わらない。
一つの物差しで、心の長さ、太さを測るのであれば、ぼくは必要悪になる。それでいい。
「20%の必要悪」──これをなくそうとしてリストラを繰り返す社会は、人間の豊かさと多様性を敵視する社会に転化していく。その先にはファシズムがまっている。軍服を着た総理大臣が、にんまり笑って「おいでおいで」をしている。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

未分類

Posted by 東芝 弘明