絵と対話
小学4年生の娘は、幼稚園でたっぷり絵を描く時間を与えられて育ったので、今も絵を描くのが大好きだ。家に帰ってからも、夢中になって絵を描いている。あるとき、娘の書いた絵を見ながら、話を聞いていると、絵も娘にとっては、一つの言語なのだという思いが絵に重なっていった。娘の話は、絵の中にある物語の説明だ。絵を描くことによって、具体的なイマジネーションをともなうお話が展開する。
千住博さんは、芸術はイマジネーションによるコミュニケーションだと語っている。「ラジオ版学問のススメ」の千住さんのお話が大好きなので、くり返しこの話を車の中で聞いている。娘の絵を見ていると千住さんのお話が、やさしそうな肉声とともに胸に大きく広がってくる。
日本語を文字で書けるようになるかなり前から、娘は絵という言語でぼくたちと対話してきた。昔の人も、文字がない時代に絵を描くことによって、情報を伝えあっていた、それがラスコーの壁画などのように残っているのではないだろうか。
イメージの豊かな絵という伝達手段を身にまとっている4年生の娘の有り様を、これからも伸ばしていくことができれば、親としてはうれしい。気持ちを表現するときには絵を一心不乱に描く。優しい気持ちを伝えるために、練習してきたピアノを疲労する、ときには作詞と作曲をして、伝えたい人に音楽を贈る。
娘の今の姿が、そのまま伸びていって、大きくなっても相手に気持ちを伝える方法をいくつももっていると考えるのは楽しい。
子どもの伸びようとする芽を摘むのは、一番身近にいる親なのかも知れない。才能の発見などというものではなく、人生の中に音楽や絵を自分の表現方法として身につけるのは、ものすごく人生を豊かにするように感じる。
それを大事にする親になれたら、子どもの発展の芽を摘み取ってしまわない親になれるかも、と思う。
子どもの話を聞くことのできる親に。
この話は、ものすごく難しい。子どもの話に注意深く耳をかたむけ、子どもの言い分にうなずいたりできる親は、子どもとの関係が次第に対等になる、ことをも意味する。子どもと対等になると、頭ごなしに怒ることができない。普段は対等平等。叱るときは朝礼台のような高いところに登って、雷を落とす。こういう使い分けがなかなかできない。
したがって毎日、娘にお願いをしている。
「お父さんにもパイナップルちょうだいよ」
「だめ──」
「一口くれてもいいやんか」
「いや──」
「なんでくれやんの」
こういう会話を今日も交わして、パイナップルの缶詰を食べそこなった。
「お父さんは、いつもほしいと言ったらあげてるのに、なんでくれやんの?」
「だって、食べたかったんやもん」
──なかなか、道は遠い。








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