学校の中にある同質性という文化

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バナナが飛ぶように売れているので店頭から姿を消している。なんでもダイエットに良いという話。
わが家は、ダイエットブームが起こるずっと前から、食卓に必ずバナナがある。一番食べているのは我妻だが、わが家ではバナナとダイエットの因果関係は、まったく証明できていない。
むしろ、「お肉、肉肉。お肉肉肉」という歌とともに娘に脂肪を捕まれている始末だ。
断じてバナナダイエットは否定したいが、バナナダイエットの神髄はまったく知らないので、否定するのはやめておこう。
「頭から食べないでおしりから食べれば効果がある」という秘訣があるのかも知れない。
なぜ、テレビが良いといったら、大洪水のようにスーパーに殺到するのだろうか。
こんな風潮だと、ヒットラーのようなカリスマ的な政治家が現れ、マスコミが天まで持ち上げたら、人気が沸騰するのかも知れない。
昔、WindowsXPか98が発売されたときに、パソコンをさわったことのない中年男性が、長蛇の列に並んでOSのパッケージを購入したという話があった。
右向け右といわれたら、まずは疑ってかからないと、洪水に飲み込まれていく。危うい傾向には、まずは刃向かいたい気持ちがある。
日本の学校の分化の中には、同級生に同質性をくり返し求めてしまう傾向があると思っており、この傾向には恐ろしさも感じている。
「みんな違ってみんないい」
この言葉を好きな子どもは多いが、「みんな違ってみんないい」という考え方は、行動哲学にはなっていない。
「みんなと同じであれば安心する」
「同じでなければ異端視する」
「同一の傾向からはみだすことは、ものすごく警戒される」
誰が、こんなにも同質性を子どもに求めているのだろうか。
「前にならえ。はい、そこ曲がっているよ。ちゃんとして。はい整列。まだ動いている。はい、よろしい」
僕の頭の中に残っている小学校の一つの風景。
戦争が終わって15年後に僕は生まれた。僕の小学校の時代。学校の体育には、まだ軍事教練のしっぽのようなものが残っていた。
しかし。日本の学校の教育の中にある文化のようなものは、まだ、同質性を子どもに求め続けているという点で、古くさいままだ。
君が代と日の丸に対する態度にもこの同質性を感じる。しかも、この同質性は、異端になると忌み嫌われ、かなりの強制力をもって是正されるものになりつつある。
ルージュという競技は、一人乗りのソリに仰向けになって、氷の壁の中を猛烈なスピードで弾丸のように滑り落ちるものだ。壁に頭が激突すると命にかかわる怪我をする危険もあるという。はみ出さないで滑っている間は、スピードという自由を与えられて選手は滑空する。
しかし、一度、許容の限界を超えて壁に激突すると大変なことになる。
君が代と日の丸も、許容の枠内でさまざまな態度を取ってもとがめられることはない。しかし、教育行政の許容範囲を超える態度で、教師が、歌うことを拒否したり反抗したりすると、途端に窮屈な処分というものが待っている。
同質性という問題は、許容範囲内で個性を発揮してもおとがめがないけれど、みんなが考えている許容範囲を超えた場合、子どもたち同士の中で異端を克服しようという自己規制が働く。
「みんな違ってみんないい」という言葉が輝く日々は、まだはるか先にありそうだ。


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Posted by 東芝 弘明