意識とは何か

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茂木健一郎さんの「意識とは何か」という本を読んでいます。
このテーマは、哲学のテーマの一つであり、脳科学者がこのテーマに真正面から挑むことが、このテーマを深める上では、決定的な意味をもつのではないかと思っています。
しかし、このテーマは、脳科学者の挑戦すべき大きなテーマであることは間違いないと思いますが、結論だけいうと、脳のさまざまな機能は分かってきたが、脳からどうして、どのような仕組みで意識が生まれるのかという点は、まったくもってまだ分からない、ということだそうです。
科学の中には、要素還元主義なるものの見方があります。たとえば、ゲノム(「ゲノム(genome)」とは"gene(遺伝子)"と"chromosome(染色体)"を組み合わせた言葉で、生物のもつ遺伝子(遺伝情報)の全体を指す言葉です。その実体は生物の細胞内にあるDNA分子であり、遺伝子や遺伝子の発現を制御する情報などが含まれています。タンパク質は、遺伝子の情報をもとに転写・翻訳という過程を経て作られます。「ゲノム解析部門」より引用)が分かれば人間の全てが分かるかのような議論です。
要素還元主義だけでは、脳の働きは分からない、要素に還元して分析するだけでは、意識がどのように発生してくるのか、分からないということです。
科学的社会主義の哲学は、古くからこの要素還元主義というような立場には立っていませんでした。
マルクスの資本論の方法は、資本主義のもっとも基本的な単位である「商品」の分析から始まって、一つ一つ階段を登るように単純なものから複雑なものへと分析をすすめ、一歩一歩階段を登るたびにその段階での法則を明らかにするという分析方法をとっていました。
資本論は、次のような分析のプロセスを歩んでいます。
商品分析から貨幣が商品であるということを明らかにし(商品の貨幣への転化です)、労働力が商品になることを明らかにし(労働力は歴史的な発展の段階をへて商品となった。労働力が商品となるためには、労働力を売ることしか生きるすべのない労働者の発生、つまり生産手段をもたない人々が出現する必要があった)、労働力商品の特殊性を解明して、資本主義社会の搾取の仕組み(剰余価値の生産の秘密の暴露)を明らかにし、資本の生産過程に至り、さらに拡大再生産の様式を分析し、さらに流通過程の分析、地代の分析等々へというように続いていきます。
要素からより複雑なものへと分析をすすめていく方法は、複雑な現実のさまざまな問題を根本問題にまで遡って明らかにし、最終的には、複雑に動いている現実を、よりリアルに分析するという方法です。
この方法は、自然科学の分析方法にも生きるのではないかと思っています。要素に還元すれば、全ての解明は終わるという訳にはいきません。近年、自然科学の分野でも、複雑な現象を複雑な中で捉え直すという「複雑系」の研究も行われています。この分野の研究は、連関や連鎖を大切にし、複雑なものの中に流れている法則を明らかにしようというものであり、マルクスが行った方法と似通っている面があるのではないかと思っています。
脳の話に戻すと、さまざまな細かい脳の機能について、多くの発見や解明がおこなわれています。研究はまだまだ現在進行形です。しかし、脳科学は、脳全体の機能の一つである「意識とは何か」という問いに対して答えを見いだす努力をおこなうべきだと思います。
茂木さんは、クオリア(質感といっていいだろうと思います)の豊かさ、細かさについて縦横に語っています。そのものがそのものであることを(つまり、同じ型の工業製品でもぼくのもっているPowerBookと他の人がもっているPowerBookには、かなりの違いがあります。自分が使い込んでいる物を見れば、二つ並べられても「こちらがぼくのものだ」ということが分かるでしょう。そういう個別的具体的な質感の違いを人間は見抜く力をもっています。でも、なぜ見分けがつくのでしょうか。
キーボードの傷はぼくがついうっかりしてボールペンの先でつけたものだとか、角が痛んでいるのは、持ち運びするときにぶつけたことによるだとか、そういうものが、感覚として瞬時に理解されたりします。
茂木さんは、そういうものが、人間の脳の働きの特徴なんだといっています。
このことを考えてみると奥は深いでしょう。
人間は、たとえば「赤い色」について、簡単に理解し合うこともできれば、同時に「赤って何」と考えるとさまざまな問題が、組めどもつきぬ問題が立ち現れてきます。
人間は、「赤」について分かっているものとして、疑問を挟まずに会話の中に登場させ、話を展開させていきます。
しかし、立ち止まって、「赤って何」というように考えはじめると、そこには無限とも思える世界があります。赤という色を簡単に定義することはできないし、誰かが絵を描くと、そこで使われる赤は、人によって千差万別。描いている画家でさえ、同じ色の赤を出すのはむつかしい、ということであるかも知れません。
この本を読んでいると、ぼくの頭の中には、規定性は否定性だという話が何度も浮かんできました。人間は、現実の問題を言葉に置きかえるときに、出来事や物事を言葉に置きかえた途端に、豊かに把握されていた質感がかなり捨象されてしまいます。言葉による表現よりも現実は常に非常に豊かです。この豊かなものを、人間は具体的な質感をもって把握できます。しかし、それを文章化するのはものすごくむつかしいことだと思われます。
ものすごく眠たくなってきました。これ以上思考が働きません。上に書いたことも本調子ではないので、難解なものになってしまいました。
茂木さんの本に対する感想めいたものは、「書きかけのもの」です。思考が働くときにもう一度書いてみます。
めちゃくちゃ眠たいです。


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Posted by 東芝 弘明