大和高田市の市PTAによる寸劇、面白かった。

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和歌山市の県民文化会館とアバローム紀の国などを会場にして日本PTA近畿ブロック研究大会が開催され、出席した。
分科会は、生涯学習というテーマの分科会だった。奈良県の大和高田市の市Pが子どもたちの昔と今の姿を寸劇で演じるという催し物があった。
出演者は、PTAの保護者、先生、教育委員会だった。吉本新喜劇を見るような演劇だったが、なかなか市全体で演じられていて、芸達者なものだった。
昔の子どもたちの登校風景や授業風景、下校の風景がおもしろおかしく演じられ、そのあと今の子どもたちの登下校風景、授業風景が演じられていた。
現役の校長先生や中学校の数学の先生、教育委員会の方々も出演するのだという。
この演劇のあとパネルディスカッションがおこなわれた。
話を聞きながら、現在と過去と何が違ってきているのかを考えさせられた。
昔は、物が少なく今よりも格段に貧しかった。文化には共通性があり、男の子のプロ野球の話題、仮面ライダー、女の子の漫画の話、ピンクレディーの歌など同じ共通の話題で話が盛り上がっていた。
今の時代は、そういう風な文化の共通性が薄まっている。
テレビ番組についても見ているものが違い、話が食い違ったりする。
子どもたちの生活自体、忙しい。塾やスポーツ少年団や習い事で子どもの自由な時間が少なくなっている。
こういう対比が、寸劇ではクッキリ描かれていた。
しかし、何が違ってきているのか。認識を問うとその思いは拡散していく。違いはものすごくたくさん具体的に挙げることができる。
でも、具体的な違いを挙げていってもどうも話が拡散していくようなきらいがある。
一体、何が違ってきているのか。
一番根本的な問題は何か。
話を聞きながら、浮かんできたのは、24時間という1日の時間の中で自由になる時間が大人も子どもも少なくなっていることではないのか。という思いだった。
夫婦共働きが増え、労働時間が増えるのと同時に、子どもの世界でも子どもが自由に遊ぶ時間が少なくなっている。もちろん、自由な時間が少なくなっている問題の背景には、大人と子どもでは大きな違いがある。
しかし、人間の自由な時間の減少が、コミュニケーションを奪い個々人がバラバラになっているというのが、昔と今の大きな違いではないだろうか。
豊かな物(商品)に振り回され、あたかもパソコンやテレビ、ゲームや携帯電話などがさまざまな問題を引き起こしたり、コミュニケーションを破壊しているかのように見えなくもない。しかし、ハイテク産業のさまざまな商品は、人間の自由な時間の減少を埋めるツールのように発展してきた側面もある。
日本社会全体が、人間の自由な時間を拡大し、取り戻していけば物(商品)と人間との新しい関係もおのずから発展していくように思う。これは楽観的な見方だろうか。
人間の自由な時間の減少によってコミュニケーションの力が衰えているのなら、コミュニケーション力を高める努力を通じて、人間の自由な時間を取り戻す運動を強めることが大事なのではにだろうか。
さだまさしさんが、見事に言い当てた自己偏愛主義。まさにこの個人中心主義的な傾向をどんなに批判しても事態は大きくは変わらない。それよりも何かに取り組むことによって、コミュニケーションをとっていくことの方が、現在の状況を改善していく力になるのではないだろうか。
人間とは、人と人との間に存在する。人は最初から社会を構成して集団で生きてきたのだから、コミュニケーションをとることで人間としての気づきや回復が保障されるのではないだろうか。
自由な時間の獲得とコミュニケーションの活発化。この視点で、物事を前向きに解決するヒントを今日の研究大会は教えてくれた気がする。
パネルディスカッションでは、会場とのやり取りが行われなかった。行われていたら質問したいこともあった。この点だけが残念だった。

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Posted by 東芝 弘明