1977年2月15日
雨になったので、雪が解けてきた。今年の冬は雪のある冬になった。
母の葬儀のことが思い出される。
1977年2月15日、母が亡くなった日の翌日は大雪になり、高野山の気温はマイナス10度以下まで下がった。
母の葬儀は、高野山の中の橋にあった従兄の家で行われた。16日の葬儀の時は、激しい雪が降っていた。葬儀のために大広間の縁側を開けていたが、正座していた足の指先は気温の低さの中で冷たくしびれていた。出棺の時、棺の列は輪になって円を描いたが、この列を見守るまわりの人々の姿は、雪の中に沈んでシルエットようになっていた。葬儀を仕切っていただいた大明王院の玄関に置かれた靴は、石畳に凍り付いて、足を突っ込んでも動かなかった。
17日の朝、火葬された母の遺骨を拾いに行った時も気温は低かった。吐く息が白くなる中で、家族と親戚は骨壺に骨を入れた。母の骨は、放射線治療の中で脆くなっていて、どこの骨を拾えばいいのか、迷うほどだった。特にガンに侵された部分の骨は非常にもろく、骨の形も定かではなかった。
「もう一度焼けば、灰になります」
斎場の係の男性は、そう言った。
19日、17歳の誕生日の日に、母の遺骨をもって長谷にある墓に納骨に行った。その途中、下新城のH君の家の前のプレハブ事務所に母の遺骨を置かせてもらい、葬儀の時にお参りできなかった人々にお線香を上げていただいた。
その日は土曜日だった。従兄の車1台で移動していたぼくたちは、最後に母の勤め先だった四郷小学校にお礼に行った。時間はまだ午前中だった。この日は、笠田高校の校内マラソン大会だったので、四郷小学校に続く道路には、高校生のマラソンの列が延々と続いていた。2年生のとき、ぼくは校内の健康診断で、校医からマラソン大会への出場を禁止されていた。心拍数が速く多いのと不整脈があるというのが禁止の理由だった。母が死ななかったら、マラソン大会は走らず見学していたはずだった。
母が死んだ2月14日の午後11時10分を前後するあたりから、葬儀が終わって19日の出来事があるまで、記憶はかなり鮮明に残っている。しかし、葬儀の休みがどのように終わったのか、記憶は不確かだ。どのような気持ちで学校に行ったのかも記憶にない。これから先の生活の有り様についても、具体的な考え方は持っていなかった。将来の夢も定かではなく、生きる厳しさも感じてはいなかった。母が亡くなったことによって、兄は大学を中退し、就職を決め、妹は中学校を卒業した後は高野山の従兄の元で生活をするようになったが、ひとり、ぼくの生活はほとんど変化しなかった。
母の死は、ぼくを内向的にした。死後、頭の中で色々なことを考えはじめるようになった。大人は汚い、社会は汚いというような思いも強烈にあった。この思いの背景にはロッキード事件があった。同時に政治や社会に対する関心が育ちつつあった。ただ、それは、頭でっかちの観念のかたまりのようなものだった。
高校3年生。自覚もなしに始まったこの1年は、未活動だった民青同盟への復帰を繰り返し促される1年になった。大学生のSさんは、嫌い反発し反論するぼくを何度も訪問した。ぼくは内心、次第に心惹かれて行った。
今晩は。いつも感動する文面を読ましてもらっていますが、今回は特にそう思いましたので、一言、コメントします。
思い出すのは「母親の母」、そうです祖母ですが、100歳まで生きるんだと言っていたのですが、「99歳(満年齢です。葬儀の時には百になりますが・・・)」で亡くなりましたが、この時、おばあちゃん(ず・・と、そう呼んでいましたので)の骨は、火葬場の職員いわく「いや・・若い骨ですよ。99歳には見えません」と。
「・見えません」です。多くの方々の骨をみてこられた方の話しでしたから、叔父もうなずいていたのを思い出しました。
子供たち(孫たちもそうですが・・・)とお年寄りを大切にしない「国」は、繁栄しないと私は確信しています。
ですから、いまの安倍晋三(1954年9月生・59歳)政権は、常にNOです。Yesはほぼないですね・・・
母や父のことを考えると、一人ひとりの人間には、それぞれかけがえのない人生があったと思います。
中津さんの
「いや・・若い骨ですよ。99歳には見えません」
という火葬場での話は、ドラマのワンシーンのようですね。みんな、いろいろなドラマをたたみ込んで生きています。
ビラを作る関係で、最近、候補者の生きてきた歩みを聞かせてもらい、文章にすることに取り組んでいます。共産党との出会いにドラマがあり、生き様があります。なかなか、一人ひとりの生き様に光は当たりませんが、そういうことにも光をあてて、党を語ることも大事になっていると思います。