国民を騙すのか。

雑感

現在の集団的自衛権の議論は、具体的な状況を想定して、あたかもそのような状況の時だけ集団的自衛権を行使できるとしている。しかし、集団的自衛権は、国際的にも確立している概念ではないか。
日本の独特の概念で規定しても、アメリカを含む世界が、集団的自衛権をそのようなものとしては捉えないだろう。

集団的自衛権は、軍事同盟下にある国の一方が武力攻撃を受けたら、その国への攻撃が自国への攻撃だと見なし、集団で軍事行動に参加できるというものだ。
戦争は、自衛のために行うことのみ許されているので、アメリカが行っている戦争もアメリカの自衛のための戦争なのだから、この戦争に日本が参戦できるようにするというのが、集団的自衛権の本当の姿だろう。

ウキペディアは、まずこう書いている。「集団的自衛権(しゅうだんてきじえいけん、英語: right of collective self-defense、フランス語: droit de légitime défense collective)とは、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である[1][2]。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある[3]。」

その次にこう展開している。
「集団的自衛権は、1945年に署名・発効した国連憲章の第51条において初めて明文化された権利である[1][4]。憲章第51条を以下に引用する。」

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

「上記のように国連憲章には「固有の権利」として規定されたが、個別的自衛権(自国を防衛する権利)は同憲章成立以前から国際法上承認された国家の権利であったのに対し、集団的自衛権については同憲章成立以前にこれが国際法上承認されていたとする事例・学説は存在しない[1]。
1944年にダンバートン・オークス会議において採択され、後に国連憲章の基となったダンバートン・オークス提案には、個別的または集団的自衛に関する規定は存在しなかった[1][5]。しかし後に国連憲章第8章に定められた“地域的機関”(欧州連合やアフリカ連合などの地域共同体のこと)による強制行動には、安全保障理事会による事前の許可が必要とされることとなり、常任理事国の拒否権制度が導入されたことから常任理事国の拒否権発動によって地域的機関が必要な強制行動を採れなくなる事態が予想された[4]。このような理由から、サンフランシスコ会議におけるラテンアメリカ諸国の主張によって、安全保障理事会の許可がなくても共同防衛を行う法的根拠を確保するために集団的自衛権が国連憲章に明記されるに至った[1][4]。
冷戦期には集団的自衛権に基づいて北大西洋条約機構(NATO)やワルシャワ条約機構(WTO)といった国際機関が設立され、集団的自衛を実践するための共同防衛体制が構築された[4]。しかし冷戦が終結するとワルシャワ条約機構は解体されるなど、このような集団的自衛権に基づく共同防衛体制の必要性は低下していった[4]。」

これが沿革である。日本は、北朝鮮と韓国が戦闘状態になったときに、邦人の救出のために動いたアメリカの船が攻撃されたら、アメリカの船を守るために自衛隊が防衛にあたるのだという。こういう具体的な事例を出して、集団的自衛権を説明するのは、極めて姑息なやり方だろう。
消費税を小さく産んで大きく育てたように、とにかく集団的自衛権を行使するようにすれば、現場の具体的な対応の中で、使用状況を一気に拡大できる。突破口を切り拓けば、国家秘密法などの他の制度を活用し、解釈を一気に広げ、事態を変えることができる。

こういうように考えてるように見える。

国際法的に確立している集団的自衛権とは何なのか。本質は何処にあるのか、という中心点からこの問題を議論し、この中心命題からすれば、憲法改正なしに集団的自衛権は行使できないという当たり前のことをまともに議論しないと、政府が国民を騙すことになる。


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雑感

Posted by 東芝 弘明