「資本論」の引用へのぼくなりの回答

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恐慌は支払い能力ある消費または支払い能力ある消費者の不足から生ずる、と言うことは、まったくの同義反復である。
受救貧民や「泥棒」の消費を別とすれば、資本主義制度は、支払う消費でない消費は、知らないのである。
商品が売れないということは、商品のために支払い能力ある買い手つまり消費者が見つからなかった(商品を買うのが、結局は生産的消費のためであろうと、そうではなく、個人的消費のためであろうと)、ということにほかならないのである。
しかし、もし誰かが、労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのだから、労働者階級がもっと大きな分けまえを受け取り、したがって、その労働賃金が高くなれば、この害悪は除かれるだろう、と言うことによって、この同義反復にもっと深い根拠があるかのような外観を与えようとするならば、それに対しては、ただ、こう言えばよい、--まさに、労働賃金が一般的に上がって、労働者階級が年間生産物中の消費用部分の、より大きな分けまえを現実に受け取るという時期こそは、いつでも恐慌を準備するのだ、と。
このような時期は、--この健全で「単純な」(!)常識の騎士たちの観点からは--逆に、恐慌を遠ざけるはずだったのに。


ハルヒさんが引用してくれたマル・エン全集の文章は上のとおり。しかし、この文章を読んでもなかなか意味を読み取れないので、不破さんの解説本を読んでみた。全集版と不破さんの本の文章が明らかに違う。
それでハタと気がついた。
不破さんが引用していた本は、1985年、新日本出版社が50名を超える研究者を組織し、「資本論」を訳し直した新書版のものだった。こっちの方が分かりやすい。
ということで、引用してみよう。

諸恐慌は支払能力のある消費の不足または支払能力のある消費者たちの不足から生じると言うのは、純然たる同義反復である。〝受救貧民の形態での〟消費または「詐欺師」の消費を別とすれば、資本主義制度は、支払をする消費以外の消費を知らない。諸商品が売れないということは、それにたいする支払能力ある買い手たち、すなわち消費者たちが見いだされなかった(諸商品が買われるのが結局は生産的消費のためであろうと、個人的消費のためであろうと)ということにほかならない。しかし、もし、労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのであり、したがって彼らが生産物のより大きな分け前を受け取り、その結果、彼らの労賃が増大すればただちに、彼らはこの害悪から救われるであろうと言うことによって、この同義反復により深い根拠があるかのような外観を与えようとする人々があれば、それにたいしては次のことを指摘するだけでよい。すなわち、諸恐慌は、いつでもまさに、労賃が全般的に上昇して、労働者階級が年生産物のうちの消費に予定された部分のより大きな分け前を実際に受け取る時期によってこそ準備される、と。このような時期は──健全で「単純な」(!)常識をもったこれらの騎士たちの見地からすれば──逆に恐慌を遠ざけるはずであろうに。

ハルヒさんの引用はここで終わっているが、後もう少し引用してみよう。

したがって、資本主義的生産は、労働者階級のあの相対的繁栄をただ一時的にのみ、しかもつねにただ恐慌の前ぶれとしてのみ許す、人々の善意または悪意にはかかわりのない諸条件を含んでいるように見える。


ハルヒさんは、ぼくに対して最初「マルクスは、『資本論・第2部』で、資本主義経済の下で労働者の購買力を引き上げるのは、経済恐慌を近づけることだと書いているのは、ご存知ですか?」と問いかけてきた。
ぼくは、「知らないです」と書いて引用をお願いした。
今、ようやく説明できるようになった。
マルクスは、諸恐慌は、過剰生産の中から起こるということを書いた。──つまり生産が増大し、景気も上昇し、それによって労働者階級の賃金が上昇し、購買力が高まって多くの商品を購入できるようになった、まさにその「時期」に恐慌が準備される──ということだ。
「消費に予定された部分のより大きな分け前を実際に受け取る時期」とはどういう時期かということが理解のポイントだろう。この時期とは、好景気による生産力の増大のもとで、労働者の賃金が上がる時期のことだろう。
労働者の購買力を引き上げると経済恐慌を近づけてしまうと言うことではない。マルクスは、この文章の締めくくりに「資本主義的生産は、労働者階級のあの相対的繁栄をただ一時的にのみ、しかもつねにただ恐慌の前ぶれとしてのみ許す」と書いたのは、過剰生産恐慌の前ぶれとして、一時期、労働者にも相対的な繁栄が許されることがある、ということだと思う。
不況の中で、労働者の賃上げをおこなっても恐慌は起こらないし、労働者が賃上げを勝ち取ったからと言って恐慌が起こるということではない。引用された資本論の文章で言えば、過剰な生産と小さい消費によって恐慌が起こるということをマルクスは批判して、恐慌は、好景気のなかで、生産力の上昇による繁栄の中で、まさに生産力の増大と消費の増大の中で、つまり、まさに繁栄の中でこそ起こるということを書いたということでもある。
今日は、コメントに対するぼくなりの理解を書いてみた。ドイツ語や英語を読めないので、ぼくは、訳された本を見るしかない。ほんの少しの言い回しの違いによって、理解の仕方が大きく変わる。引用していただいたマル・エン全集の訳だけを見ていたら、今回のような認識にはたどり着けなかったと思う。
「資本論」は、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、日本語などに翻訳されて刊行されてきた。英語やフランス語、ドイツ語などの訳本は、単なる訳本ではなく、マルクスやエンゲルスが生存中に監修して訳されたものだ。新日本出版社の「資本論」は、解説によるとさまざまな言語で出版された「資本論」とともに2人が生存中に作成され、手を入れた版の違う「資本論」も参照にされた。また、日本語訳のすべての「資本論」も参照にされたという。
気の遠くなる作業の末に1985年版の「資本論」は誕生した。
日本の訳本の中で最も分かりやすく書かれているのが、新日本出版社の「資本論」だと思う。──とは言っても、このぼくの言説は、新訳「資本論」のうけうりに過ぎない。
こういうことも書いておこう。


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Posted by 東芝 弘明