歴史とは何か2

雑感

広島の原爆
広島の原爆

歴史が、小説に対する感想のようにさまざまな解釈がなされる理由について考えてみよう。南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦は、単なる公娼制度であって、性奴隷と呼べるようなものではなかったなど、同じ南京大虐殺や従軍慰安婦という問題をとっても、解釈が180度違う場合が増えている。一方の勢力は、第2次世界大戦における日本の侵略戦争を認めているのに対し、一方の勢力は、日本の侵略戦争を真っ向から否定している。この対立が、南京大虐殺や従軍慰安婦をめぐっての意見対立になっている。
この2つの問題を取りあげたのは、この2つの問題が対決の焦点をなしているからでもある。言い方を変えれば、南京大虐殺と従軍慰安婦の問題を認めるのか、認めないのかが、日本の戦争に侵略性があったかどうかに直結するので、論争の焦点がここに集まっているとも言える。

ぼくは、第2次世界大戦における日本の戦争は、侵略戦争だったという立場に立っている。
一つの歴史的事件に対し、どうしてこのような意見の対立が起こるのだろう。
それは、小説に対する感想のように、意見が色々違うというようなものではなくて、現在の政治において、過去の戦争をどう評価するかが、現在と未来に深く関わっているから対立しているという側面が濃い。
安倍政権は、現在、集団的自衛権の行使を積極的に容認して、世界中のどこにでも武装した自衛隊を派遣して、色々な国(実際にはアメリカ)の軍隊の後方支援ができるようにしようとしている。このことを実現するために、中国や韓国や北朝鮮における第2次世界大戦についての日本に対する避難や反日的な運動を利用している。中国の脅威、韓国の許しがたい傾向、北朝鮮の脅威をあおり立てることが、日本も武装しないと侵略されるかも知れない、という意識を煽っている。

集団的自衛権の行使容認に踏み切ったときに、安倍首相は、邦人の救出という例を引き、中国に近い海をパネルで示して、日本の自衛隊が邦人救出のために活動するということを伝え、集団的自衛権行使の必要性を説明した。あたかも言外に中国や韓国との有事があるかのような印象を振りまいた。
日本人の中に排外的な感情を醸成するには、どうすればいいのだろうか。第2次世界大戦のときの日本の戦争が侵略でなかったというようなメッセージを送れば、中国や韓国からも非常に強い反日的な反発が出てくる。そういう反発が生まれると日本国内に中国憎し、韓国憎しという感情を醸成できる。
そうすれば、自衛隊を国防軍に格上げすることも、憲法改正も、集団的自衛権行使にも道が開ける。

そういう計算が成り立っている。だからこそ、南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦は単なる当時各国が行っていた公娼制度に過ぎない、と言いたいのだ。さらにもっと大きな動きとしては、日本の第2次世界大戦における戦争を、当時の大日本帝国が言っているように、アジア解放の戦いだった、というようにしたい勢力がいる。安倍さんもこの中の一人だろう。これらの方々は、最近、東京裁判を否定し始めている。戦犯として処刑された人々の名誉回復まで唱え始めている。しかし、この動きは、戦後の原点であるポツダム宣言の受諾、サンフランシスコ平和条約の否定に直結する。

歴史的な問題に対する見解の相違は、現代の日本が取ろうとしている政策との関係で生まれている。日本が取ろうとしている政策は、アメリカの要求するものである。それは、日米安保条約に基づく自衛隊の海外での戦争への参加にほかならない。集団的自衛権行使容認は、アメリカの要請に応えたものだ。これを実現するために安倍政権は、中国や韓国の反日感情を最大限に利用しているということになる。

歴史に対する解釈の違いは、政治的な利害、その背景に土台として存在している経済的な利害によって引きおこされている。武器輸出解禁、自衛隊の海外派兵が実現することによって、確実に兵器を生産している企業が儲かる。アメリカによる戦争も、アメリカの経済的な利害を根底に持っている。日本がここに参加することによって、アメリカは軍事の分担を求めている。日本の側は、アメリカと行動をともにすることによって、アメリカの庇護の元で圏域を広げたいと考えている。こういう生臭い問題によって、歴史問題に対する対立が生まれている。

日本を戦争する国にするためには、国家機密法だけでなく国防保安法、軍機保護法などの仕組みがいると考えているかも知れない。さらに広く国民を弾圧し思想統制のできる治安維持法のような法律を作りたいと考えているのかも知れない。自民党が打ち出した憲法改正草案は、基本的人権に制限をかけるものになっており、緊急事態には戒厳令をひけるような仕組みを盛り込んでいる。
戦争をする国は、国民に自由を保障しない。アメリカは、大統領選挙に見られるように、国民の政治的な自由に規制をかけている。投票したければ、選挙人登録が必要であり、州によっては、登録の際民主党か共和党かいずれかの政党の支持を表明しなければならない仕組みまである。
アメリカの2大政党制は、人為的に保管されている。それ以外の政党が大統領候補を出すためには、州ごとに膨大な署名を集める必要がある。50州のすべてにおいて、大統領候補を出すための署名に成功した第3の政党は存在しない。自由の国アメリカは、戦争を続けてきた国であり、国民の政治的参加を著しく抑制してきた国だ。こういう仕組みをもっているからこそ、第2次世界大戦後もずっと戦争を継続し続けることが出来たと言っていいだろう。

織田信長が、戦国大名の終わりの側にあった大名なのか、それとも国家統一の新しい大名だったのかという論争がある。興味深い話なのだけれど、この問題は、国民を2分する問題にはならない。第2次世界大戦をどう評価するのか、という問題は、極めて現代的な意義をもつ日本の進路のかかった問題になっている。21世紀の未来を開くためには、決着のついていない第2次世界大戦の評価に対し決着を着ける必要がある。大戦等時、あの戦争を遂行した人々のほとんどは鬼籍に入っている。しかし、戦争を遂行した勢力の中には、日本の敗戦を忌々しく思い、挽回したいと願ってきた執念のようなものがあった。日本は、第2次世界大戦について、徹底的に歴史的な教訓を明らかにできないで今日まで来た国だ。当時の日本がよかったという勢力が、戦後復活して、自民党勢力の一翼や財界の一翼を担ってきた。これらの勢力の意思を受け継いだ2世、3世の方々が、靖国派という形で政治の表舞台に出てきている。
これに対し、あの戦争を日本の敗戦だと受けとめ、新しい国民主権の日本として戦後を歩み始めたことを、積極的に肯定的に受けとめてきた自民党の政治家や財界人もいた。自民党の中には、この2つの流れがあった。戦後の政治の発展は、戦後政治を肯定してきた勢力によって培われてきたという側面もある。
日本共産党は、大日本帝国の敗北によって、国民主権の日本が実現したことを、日本の政治と経済の大転換だったと把握し、憲法に国民主権を書き込ませた政党だった。恒久平和と民主主義、基本的人権の尊重によって、日本社会は生まれ変わった。広島・長崎への原爆投下を含むおびただしい犠牲が、戦後の劇的な変化を生み出した。世界は、50000万人を超える死者を生み出した第2次世界大戦から深い教訓を導き出した。この教訓が日本国憲法に深く反映させられた。戦争の犠牲者の願いは、恒久平和や国民主権、基本的人権の尊重に込められている。戦後の繁栄の礎になったという場合の「礎」というのは、日本国憲法の誕生にある。この憲法体制が生み出した国民の権利の保障が、戦後の復興と高度経済成長を生み出す一つの力になった。
戦争による戦後生まれ変わったこの日本を、21世紀に発展させることが問われている。日本共産党は、日本国憲法にもとづく国づくりが、はばまれてきた問題を重視し、日本を日本国憲法の生きる国として発展させるために全力を尽くしている。同時に、アメリカに主権を著しく侵害されてきた戦後の歴史については、総決算すべきところにきていると考えている。
戦後70年間、日本はアメリカに主権を侵害され続けてきた。アメリカの要求を受け入れて国づくりを行ってきた中で、農林水産業が破壊されてきた。軍事的には、アメリカの軍事戦略に深く組み込まれ、日本の自衛隊による海外参戦というところまで事態が進んでいる。
アメリカと対等平等の関係を生み出さないと、経済発展にも支障をきたすところまで矛盾が激化している。日米安保条約を廃棄して、アメリカと対等平等の平和友好条約を結ぶことこそが、日本国憲法の生きる日本をつくる道になり、日本の農林水産業や日本の商工業を持続的に発展させる新しい道になる。

不思議なことに、安倍さんを含め右翼的な潮流は、対米従属問題に対しては従順に従うという態度をとっている。右翼的な勢力が国家の独立を言えないというのは、論理的におかしい。というような変な問題が日本の右翼には存在している。日本の真の独立、アメリカとは対等平等に、という政策は、日本共産党が1960年代のはじめから今日まで一貫して掲げているものだ。日本共産党には、非常に深い愛国心がある。


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Posted by 東芝 弘明