人生は自分で選ぶ

雑感

「この世に生まれてきた意味」について考えたことがあるだろうか。
子どもが生まれることを望んでいた両親がいて、生まれてくるに至るそれぞれの特別なドラマがあって人間は生まれてくる。生まれてきた人の中には、生まれる前から不幸を背負わされ、産み捨てられてしまうという例さえある。こういう具体的な話の中から「この世に生まれてきた意味」を探し当てることはできないと思いはじめている。
「この世に生まれてきた意味」という問いには哲学的な匂いや宗教的な匂いが漂っている。この問いは、かなり抽象的で一般的なものだ。哲学的な匂いや宗教的な匂いは、この一般的な問いかけによって生じているように思われる。
「神が命を与えたのは神の意向だった」などと言えば、歴史上の英雄が登場するかのようなニュアンスが漂ってくる。哲学であれば、人間とは何か、生命とは何かという問いを立て直して、この世に生まれてきた意味を問い返す作業を始めるかも知れない。

ぐちゃぐちゃ考えるのは止めて、ぼくなりの結論をいきなり書いておこう。この世に生まれてきた意味は、一言で言えば「種の保存」に尽きると思っている。これ以上の意味は何もない。
「そんな言い方をしたら身も蓋もないやんか」という声が聞こえてきそうだ。
言いたいことは、この先にある。
「種の保存」という意味しかない「この世に生まれてきた意味」に対して、自分の人生を意味のあるかけがえのないものにするためには、自分自身で自分の人生を選ぶ必要がある。自分の一度きりしかない人生を、自分の胸に手を当てて、意味のある生き方、充実した人生を送るかどうかは、自分自身の「選択」にかかっている。

自分の人生を価値のあるものにするのか、しないのか。それは自分の選択にかかっているというのは、魅力的ではないだろうか。これは、自分の選択によって自分の人生を変えることができるという見方でもある。
自分の人生を自分で選び取るという自己選択論は、自己責任論とはかなり意味合いが違う。自己責任論は、その人に責任のない問題も全て自己責任という言葉で逃げて、責任を国民に転嫁するという権力者による上から目線の押しつけがある。

自己選択論は、孤立無援の孤独な選択ではない。人間は、まわりの人々との信頼関係の中で育っていく。小さい頃から大人になる過程の中でまわりの人々への信頼がより豊かになるように育っていく人間は、かなり強い幸福感を持っていると思われる。自分の努力が実ることを信じ、その努力によって自分で自分の人生を切り開く。自己選択論は、まわりの人々への信頼の中で育まれるものであってほしい。

勉強して医学部に入り医者になったという人は自分の努力で医者になったといえるかも知れない。しかし、同時に医者になるための資金がものすごく必要だという点もある。学業が優秀というだけで医者になれるという時代は、過去の話なのかも知れない。
ぼく自身の人生がそうであったのだけれど、自分で自分の人生を選び取った人はそう多くないのではないだろうか。多くの人は、会社に就職してからはじめて仕事に魅力を感じ、自ら選び取ったようなスタートではなかったけれど、次第にものの見方や考え方が定まってきて、生きる目的や意味を見いだした人もたくさんいるだろう。
人生の選択というのは、自覚的に自らの人生を生き始めた人の前に立ち現れてくるものだと思う。そういう分岐点は年齢によってはかれるものではない。自分の人生に対して、自分自身が主人公だという考え方が備わったのちに、自分で自分の人生を選択するという時期がやってくる。人によってそれは10代や20代のときもあるし、30代や40代、50代のときもあるだろう。

自己選択論というのは、そういうものだと思われる。
「この世に生まれてきた意味」はない。この意味のない生に対して、本当に意味をもたせるためには、人間としての精神的自立とその自立の上に立った人生の選択というものが必要になる。選択は、必ずしも大転換を意味しない。
大リーガーのイチローがかつて、自分の打撃の開眼はボテボテのセカンドゴロを打ったときだったと語ったことがあるように、日常の小さな変化にすぎないこともある。
自分の人生を自覚的に生きるようになった人は、繰り返し何度も何度も自分の人生を選択している。その選択は、あたかも伸び続ける青い竹のように節を形成してしなやかだろう。意味のない人生に深い意味を与えるのは、自分自身の選択。それは年齢とは関係がない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明