若者を自立させない客観的な条件

雑感

「あんなにバカ高い大学の授業料を設定していたら、若者は自立できない。親に依存するしかない」
ぼくは、こう言った。
話をするまでこんな観点からこのことを考えたことはなかった。
人と会話していると、考えが触発されて、考えていなかった物事の側面に気がつくことがある。

高校を卒業すると、国立大学で言えば53万5800円の授業料がかかるようになる。入学金は28万2000円このお金を18歳の若者が自分で稼ぎながら大学に行くことはほとんど不可能に近い。大学の授業料を誰が負担するのかと言えば、基本的には親か奨学金以外にない。
大学に4年間かよって、奨学金で入学金と授業料を賄う場合、国立大学でさえ242万5200円もする。入学すれば、パソコンも必要になるし、教科書も買わなければならない。下宿代や交通費もいる。1時間半移動するわが家の娘は、交通費だけでも年間20万円を超えている。
親に負担してもらうという関係は、18歳から22歳まで経済的に親に依存することになる。奨学金を借りて返済する場合は、大人として自立する入口で300万円近くの借金を背負うということに他ならない。
マイナスの資産状態から自立が始まる。就職しても、職場になじめず仕事を辞めてしまえば、借金だけが残る。この借金が今度は自立の妨げになる。

今の若者は、自立していない。いつまでも親に依存している。ひ弱、軟弱、草食系、覇気がない、大人しいなどといろいろな言い方がされているが、それは若者の意識がそうなっているということだけで論じるのは間違いだということだ。
親や奨学金に依拠しなければ、大学生にさえなれないという状況が、若者の自立を妨げている客観的な条件になっている。
もちろん、こういう状況下でも、自立を実現して、しっかりした若者になっている例もある。経済的にもしたたかにお金を稼ぎながら大学生活を送っている人もいるだろう。
しかし、経済的に依存しなければならない客観的な条件の問題は、人間の成長にどのような影響を与えているのかということは、考えざるを得ない。

ヨーロッパ諸国のように大学の授業料がほとんど無料になっている国、しかも生活する必要条件を満たした返済の必要ない奨学金がある国の場合、大学生は18歳になると親元から離れ、自立して大学生活を送っている。経済的な自由が、生活上の自由を保障し、精神的にも自立できる客観的な条件として作用している。こういう国に生きている若者と日本の若者が、大きく違ってくるのは、至極当然なことではないだろうか。

大学がこのような重しを持った制度として成り立っており、大学を出たからといって、安定的な就職が保障されていない日本という国は、いつまで経っても子どもが親に依存しなければならない状態に置かれているといっていいのではないだろうか。
まともに就職できなければ、親に依存して生きる状況が30歳を過ぎても続いていく。
経済的に依存せざるを得ない客観的な状況の下で、親は子どもが大学を卒業するまで、子どもの面倒を見なければならないという状況に縛り付ける。これは親が子どもから自立していくことをも妨げている。

ひ弱、軟弱、草食系、覇気がない、大人しいというような若者気質を生み出している社会的構造について、日本の政治と経済はもっと深く事態をとらえ直す必要がある。日本は、若者の豊かな成長を幾重にも阻む社会になってしまっている。
大学の授業料の無償化は、若者の自由で多面的な発展を極めて大きく疎外している根本的な要因の一つになっている。学ぶ意欲があり、自分の学びたいという意欲があれば、それを力に自由に自立できる社会への移行を実現しないと、日本の未来は豊かにならないということではないだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明