『君たちはどう生きるか』という問いかけの意味

雑感

何日か前に『君たちはどう生きるか』を読み終えた。ぼくが読んだ本は、戦前発行された本を底本にして、少しだけ改訂した本だった。読み終えたときにこのことを知った。初版本に近い本を読めて嬉しくなった。

道徳の本という批評があったが、この批評には違和感があった。
人は、生き方の規範を学べば、正しい生き方ができるというのは、かなり表面的なものの見方ではないか。規範を知っていても、それを力にして生きるということになるだろうか。

世の中にある、人としてこう生きるべきだというような道徳的な考え方は、その時代、その社会ごとに共通の意識として広く存在するだろう。道徳の中には、未来にわたって生きる規範もあれば、時代とともに変化するものもある。一定の社会の中で正しいとされていた道徳が、時代とともに否定されるのはよくあることだろう。
例えば、江戸時代において身分制度は、社会的に守るべきものだった。身分の違いを乗り越えることができず、農民が武士階級に自分たちの要求を届けることは、「直訴」と呼ばれ、命をかけなければなしえないことだった。農民が直訴することは、身分の違いを超えて意見を主張することであり、日常的には許されない行為だった。

現在の日本国憲法では、思想信条の自由が保障され、性別や出生によって差別されることはなく、国や地方自治体に対して請願を行うことも当然のこととして認められている。封建時代には許されなかったことが、今の社会では許されている。江戸時代の道徳と現在の道徳には、大きな違いが存在している。
日本は明治になっても、国民の参政権は実現していなかった。第2次世界大戦が終わるまでで実現したのは、男性の普通選挙権だった。女性には参政権がなかった。したがって、女性は政治に対して主張することは、極めて大きな制限があった。
社会の中心は男性であって、女性は男性に従って生きるべき。これが第2次世界大戦が終わるまでの日本の道徳だった。

道徳は、時代とともに発展していく。第2次世界大戦という惨禍の中から世界人権宣言が生まれ、基本的人権が国際的に大きなテーマになり、自由と民主主義が戦後の大きな主題になった。時代と社会の中で培われてきた道徳には、未来に繋がる真理のかけらのようなものが入っており、その時代の制約を受けた道徳の中には、時代が進むにつれて、否定されるものも含まれている。そうやって道徳は時代とともに変化してきた。
道徳をどんな時代でも変化しないものとして学べば、極めて硬直化したもの、人間の生き方を外から人間に押しつけるものになってしまう。安倍さんたちのいう道徳や規範には、こういう匂いがまとわりついている。

『君たちはどう生きるか』は、そういう道徳を学ぶための本ではないと思われる。
この本は、「どう生きるべきか」なんてことは問わない。問いかけているのは、「どう生きるか」だ。この本は、自分の頭で考えて、自分なりの発見を積み重ねて行くことの大切さを語り、さらに自分自身の行為によって、自分の生き方、考え方は大きく左右される。生きる上で行為が大きな意味をもつということを訴えている。人間は過ちを犯すけれどそこから何を学ぶのか、そこから何を生かすのかを問いかける本になっている。

本の一番最後に問いかけられた言葉
「君たちはどう生きるか」
日本が日中戦争へと向かう時代の中で投げかけられたこの言葉の意味は深い。

自分の感覚を信じ、自分の頭で考え、それを力にして「どう生きるか」。
この問いかけは、今を生きるぼくたちにも問いかける力を持っている。

こういうことを書いているとスティーブ・ジョブズの姿が浮かんできた。
ジョブズは、大学の講演でこう語ったことがある。
「時間は限られています。だから、誰かの時間を生きて、自分の時間を無駄にしないでください。常識にとらわれないでください。自分じゃない誰かの考えに自分を合わせるようなことをしないでください。誰かの意見にとらわれて自分の内なる声を押し殺さないでください。何より重要なことは、自分の心と直感を信じる勇気を持つことです。自分の心と直感は、自分が本当に何をしたいかを既に知っています。その他のことは、二の次で構わないのです」


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雑感

Posted by 東芝 弘明