自分の頭で考える

雑感

自分の頭で物を考えることについて、改めて考えることがあった。学生時代に『唯物論と経験批判論』を分からないまま読み、そこからレーニンの『哲学ノート』を読んだころから色々考えるようになった。哲学が与えてくれた命題は、自分の頭で物事を考える習慣を身につけてくれる大きな契機だった。

自分の頭で物を考える。それは、与えられたテーマについて具体的に考えることだった。知識を理解することと自分の頭でものを考えることとはかなり違う。知識を理解するだけの人は、自分の頭の中で知識が発酵しない。一つの論理が別の論理によって否定されていたり、矛盾していたりしても、自分の頭でものを考えないので、「こういう説があるがこういう説もある」という形に終わる。

いったい物事の真理はどこにあるのか。ぼくにとって真理というのは遠大な真実というような意味を全く含まない。客観的真理=事実やものごと本質ということに他ならない。真理に価値評価は含まれない。こういう真理の探究を学生のころから行ってきた。相反する2つの説に出会ったら、一体どちらに正当性があるのかを見極める努力をしてきた。もちろん、見極めきれないことはたくさん存在する。それでもことの真偽を探求する努力が重要だと思っている。

物事を探求していくプロセスは面白い。調べ始めると1つのものの中にいくつかの違った傾向が存在するのを発見することもある。この物事にはAという側面とBという側面があるという発見に喜んでそこで終わってしまうことも多い。ぼくはそういうことを発見しても、そこで終わりということにはしない。では、この物事が今後どう発展するのかということを考えて、一体その物事の発展を規定しているものは何かを見極めたいと考え、さらに調べていく。こういうものの見方をしていくためには、物事が発展してきた歴史をみる必要がある。すべての物事には、生成と発展の歴史がある。この変化のプロセスを把握していけば、その物事がどう発展するのかも見えてくる。そのときにその発展を支えているものがAなのかBなのかも見えることがある。

事物の運動を歴史の中で捉える努力をすれば、その物事の発展を支えている本質も見えてくるということだ。そこまで見えてくるとAという側面とBという側面があるということに留まらないで、この物事を規定しているのはBではなくAだということも明らかになる。

このようなものの見方は、判断する。見極める努力をするということでもある。判断すると誤りを犯すことも多い。しかし誤りを怖れないで判断することによって、認識を前に進めるということを大切にしている。

注意しているのは、自分の判断に誤りがあったら、この判断には固執しないという柔軟性だ。判断を積み重ねていくが、新しい事実が提起されて判断の不十分さや誤りが見えてきたら、あっさり判断を変更する。いつもこうありたいと思って物事に向き合っている。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明