男はつらいよ 2005年4月18日(月)

雑感

昨日、「道化師のソネット」のことを調べていると、「翔べイカロスの翼」が上映された1980年に「男はつらいよ・寅次郎ハイビスカスの花」が上映されていたことを思い出しました。
20歳の時に一人で映画館に行き「男はつらいよ」を観たことが、私と寅さんの出会いであり、1995年の最後の作品までのつきあいの始まりでした。1980年から15年間、すべての作品を映画館で見続けたことになります。
実際に映画を観るまで、「男はつらいよ」の存在は、強烈なワンパターン映画という先入観しかありませんでした。
しかし、初めて観た「ハイビスカスの花」は、私の先入観を強烈に打ち壊してくれました。
21歳のとき、しばらく同居していた同級生のK君に「男はつらいよ」をすすめたことがあります。K君はその頃、仕事を失って失意の底に沈んでいました。
「することがないんだったら、うちにおいでよ」
この一言から、同居が始まりました。
彼の落ち込みぶりには激しいものがありました。
失業中のK君は、することがないので、私の帰りを待って、将棋を指すのを楽しみにしていました。将棋に負けたらくやしいですよね。
何日も将棋を指して朝方になるという日々が始まりました。
寝不足に苦しんだのは私でした。この寝不足地獄から足を洗うために、「映画でも観たらどうか」という話をしました。
K君は毎日片っ端から映画を観はじめました。まだレンタルビデオなどなかった時代です。
彼は、私の帰りを待って観た映画の話を克明にし始めました。
ある日、彼はこういいました。
「もう、観る映画がない」
私は「男はつらいよ」をすすめました。
K君は、渋々観に行きました。
季節は9月に入っていたので、映画館はガラガラでした。貸し切り状態のような中で朝早くK君は映画を観るために映画館の真ん中当たりに座ったようです。
すると、一組のカップルが館内に入ってきて、K君の隣の席に座りました。見るからにやくざ風のカップルでした。若いK君は、席を替わる勇気もなく、小さくなって映画が始まるのを待っていました。上映が始まると、寅さん映画は文句なしにおもしろく、やくざ風のカップルといっしょに大笑いしたようです。
上映が終わり、K君は話しかけられました。
「寅さん、おもろいやろ、俺は大好きや」
結局、3人でもう一度寅さんを観たそうです。
3人は意気投合して、幸せな気分に浸ったということでした。
K君はのちに、大阪に住みました。ビデオで寅さんのすべての映画を観たそうです。
「男はつらいよ」には、語り尽くせないほどの哲学が込められ、それらのことを論じて多くの人が本に書いています。
そう言う本のいくつかを読んで、映画館ではパンフレットを必ず買って、作品の一つ一つを楽しんでいました。
山田洋次監督は、1964年、藤原審爾原作の「庭にひともと白木蓮」という短編小説を「馬鹿まるだし」という題名で映画化しています。「男はつらいよ」が映画化される5年前のことです。
藤原審爾氏は、この小説とともにいくつかの短編小説で、寅さんの原型を彷彿させる主人公を描いています。
この小説集を手にしたときに、私は非常に驚きました。解説者も、「男はつらいよ」との類似性に言及し、この小説群の方が映画よりも先に存在したので、寅さんは、藤原審爾氏と山田洋次氏が生み出したのではなかろうか、という意味のことを書いていました。
山田洋次監督が「馬鹿まるだし」をとったときには、まだ寅さんという存在は、全くありませんでした。この作品は、喜劇映画監督としての出発となった作品のようです。
この作品を映画化することをきっかけに藤原審爾氏との交流が始まったようです。山田洋次監督は、当時まだ若く、「庭にひともと白木蓮」という美しい題名の小説を「馬鹿まるだし」という題で映画化したことを恐縮していたようです。
「原作者が会いたがっている」
連絡を受けた山田洋次氏は、おそるおそる藤原邸を尋ねました。
藤原審爾氏は1984年12月20日、ガンで亡くなりました。山田洋次監督は、氏の死後、「師・藤原審爾」というエッセイを書いています。このエッセイを読むと、山田洋次監督は、自分がとったすべての映画を藤原審爾氏のもとにもっていき、上映して批評してもらっていたようです。この関係は、藤原氏が亡くなるまで続いたようです。山田洋次作品には、藤原審爾氏の影響が色濃く出ているように感じます。
寅さんは、山田洋次氏と渥美清氏の話し合いの中から生まれました。渥美清氏の人生が、寅さんのようにおもしろく、渥美さんの話の中から車寅次郎が形作られていったということです。渥美さんの話に出てきた人物像は、戦後食料はなく、しかしエネルギーがあった時代の中で、現実に存在した人物像だったのかも知れません。それが藤原審爾氏の小説になり、渥美清氏の話に生きて呼吸していたていたのだと思います。
この3人は、山田洋次監督を橋渡しにして成り立っていた関係だと思います。藤原審爾氏と渥美清氏に交流があったのかどうかは、確認すべくもありませんが、もし対談が存在すれば、おもしろいものだったのではないかなと思います。
寅さん最後の作品は、神戸の震災現場で寅さんがボランティアをおこなうという設定で描かれ、長田区の町が映し出されていました。最後のマドンナが浅丘ルリ子さんだったということにも不思議な縁を感じます。渥美さんは、状態が非常に悪く、出番がないときは横になっていたようです。
若いときに結核を患い、肺を片方摘出していた渥美清氏と藤原審爾氏。藤原審爾氏が死去した12年後、渥美清氏はガンでなくなっています。
そういえば、「馬鹿まるだし」にも渥美清氏は出演していました。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明