ひたすら寝てました 2006年3月19日(日)

本の紹介

熱はないのに、頭が痛く目のまわりが疲れている感じで、背中にもざらざらした感じが残っている。
「疲れが溜まっているんや、睡眠不足や」
妻の忠告を受け入れて2階のベッドで寝ることにした。
風邪薬を飲んでいるせいなのか、かなりの時間眠っていたと思う。目が覚めるたびに「他人を見下す若者たち」(速水敏彦著 講談社現代新書)を読んだ。
さだまさしさんは、現代の若者を中心とした傾向を自己偏愛主義と呼んだが、この本では、一つの仮説として、「仮想的有能感」という言葉を使っていた。
自分は優秀だと思いこみ、現在の自分は本当の自分ではないと思い、本当の自分、本当の自分の能力はいつか発揮できると思い、他人を自分より下に見下し、自分のことに最大の関心を寄せ、自分の自由を侵害することには、怒りをあらわにし抗議する。しかし、社会的な不合理に対しては関心を示さず、社会的事件にも興味を示さない。
速水さんは、こういう傾向に対し、さまざまな調査を踏まえて分析を重ね、有能だという思いこみ感情を「仮想的有能感」と表現した。
この「仮想的有能感」と「自尊感情」とは重なり合わないと書いている。「自尊感情」は、自分の体験に基づく自分を尊いと思う感情のことだ。ここでいう「自尊感情」は、自己肯定感を形成する重要な要素となる。
これに比べ、「仮想的有能感」は、自分は他人よりできるという思いこみから成り立っており、物事を実現した経験に乏しく達成感などもあまり味わったことがない場合が多いという。
たえず他人を否定し、「世の中の連中はつまらない奴らだ、取るに足らない奴らだ」という感覚を自分の中に染みこませている。
「仮想的有能感」は誰でも持っている感情だ。この「仮想的有能感」が強くなり、まわりに対して批判的攻撃的になると自己偏愛主義というような状態になってしまう。
「仮想的有能感」の増大傾向は、地域社会や会社社会が崩壊して個人主義に移行しつつあるなかでおこっているという。しかし、個人主義は必ずしも人間の連帯を打ち壊すものではない。個人主義=人間の連帯の否定ではない。日本で進行しているのは、個人主義=勝手主義というものだ。この勝手主義は、自分の自信のなさが根底にあるから、自分の弱さをさらけ出さないように、より一層攻撃的になるようだ。
若い世代が、自分探しをおこなうことにどれだけの意味があるのだろう。自分というものが充分確立していない中で、自分を探してもそんなに豊かな自分には出会えない。
闇の中でどんなに自分探しの旅を続けても、その闇は明けないし、確かな自分も見つからないだろう。
人間は、他人や外界に働きかけることによって、自分を育てるものではなかろうか。自分のために生きるより、まわりの人の役に立つように生きることを通じて自分を育てよう。
自分の世界で悶々とする時間が必要なときもあるだろう。でも具体的な事柄に具体的に関わって、まわりの人との人間関係を確かなものにしていくことの方が、自分を造る道なのだ。人間の可能性は、外に向かって開かれている。自分の内面を探す旅で青い鳥は見つからない。
「仮想的有能感」
速水さんは、「ここで示した見方は、まだ心理学会で十分に認められたとは言えない。実証的研究は、2,3年前から私の研究室のグループが始めたばかりである」と後書きに書いている。
かなり慎重な姿勢だ。しかし、「仮想的有能感」という言葉は、現代の意識動向をとらえる重要なキーワードになるものだと思う。
果たして、自分の「仮想的有能感」はどの程度のものだろう。自己への批判を受け入れる度量はあるだろうか。他人に共感する感情は豊かに存在するだろうか。自分の能力を過信して思い上がった人間になっていないだろうか。
「人間にとって価値あるもので私にとって価値のないものはない」
この言葉の意味を20歳代からかみしめようとしてきたから、極端な「仮想的有能感」をもっているとは思わないのだが。


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Posted by 東芝 弘明