論理思考について 2006年8月19日(土)

本の紹介

「高校生のための論理思考トレーニング」(横山雅彦著)を読んでいる。すごい本だと思う。
日本語には主語がないという論調は以前にもあったし、日本語は非論理的だという指摘も以前からあった。しかし、これほど的確に日本語の非論理性を指摘し、英語との違いを明らかにしている本に初めて出会った。
英語のaやtheなどの指示語は、きちんとした理由をもってつけられている。a deskという場合のaは初めて述べるdeskのことをさし、the deskは、今までその文章の中で論じてきたdeskのことを指すのだという。
アメリカの英語は、人種がるつぼのように集まっているアメリカの中で、「微に入り細にいり丁寧に言葉で説明しようとする」という。同じ英語でもイギリス人が驚くほど言葉に全幅の信頼を置くのは、「雑多な移民からなるアメリカにおいては、死活問題だったからである」と指摘する。
アメリカのI(私)は、絶対神である神との関係で存在が確立しているIであるのだという。アイデンティティーの確立は、絶対神との関係で成り立っているのだという。日本語に一人称の呼称が縦横無尽に存在するのは、日本は、八百万の神という精神構造の中で、自分と第三者との関係性の中で相対的に呼称が変わるところに理由があるのだという。
私(わたくし)という呼称は、議会で発言するときに男も女も使う。ぼくという表現は、改まった場では用いられない。同じ人間が俺と言い、ぼくと言い、自分と言い私と言う。日本人は自由自在に他との関係性の中で呼称を変化させる。
わが家の娘は、ぼくのことをお父さん、パパ、父ちゃん、とうちんなどさまざまに使い分けている。その時々の気分に合わせて呼び方は自由自在に変化する。
日本は、個というものがアメリカのように確立しておらず、たえずさまざまな関係の中で相手に合わせて変化する。

まさに水のように融通無碍(ゆうずうむげ)に、日本人は相手に合わせて自らの呼称を変え、言葉遣いを変える。自分の存在はできる限り後退させ、相手に合わせる。赤ちゃんに対してまで融通して、「赤ちゃん言葉」で話しかける国民は、日本人だけである。


この指摘によってはじめて、日本語にさまざまな一人称が存在するのか理解できた。相手との関係性の中で変化させることのできる言語をもつと言うことは、他方で自我が確立していないことと密接に絡んでいるということなのだ。
この本の中で、インターネットにおける掲示板のような存在と、匿名性の中で人格攻撃のような傾向が蔓延していることについても言及がある。アメリカでは、日本のような現象にはなっていないという。

とくに「2ちゃんねる」のような巨大匿名掲示板は、日本にしかない現象なのだそうだ。ここまでインターネットで無責任な放言が飛び交う国は稀で、しかもここで書き込まれた内容が、まともに取り上げられ、場合によってはメディアを賑わすなど、アメリカでは信じられないことらしい。
これは、ロジックの土壌がない日本語の世界に、ロジックを前提とするインターネットのシステムだけがもたらされた結果だろう。インターネット自体が問題なのではない。論証責任を果たさない無責任な言論の媒体となってしまっていることが、問題なのである。


おもわず膝を打ってしまった。

結果、戦後日本では、まったくI(アイデンティティ)を確立していない「民」に主権が与えられてしまった。take and takeという理念不在、責任不在のきわめていびつな民主主義が出現してしまったのである。インターネットの書き込みが象徴するのは、「論証責任の伴わない言論の自由」といういびつな民主主義である。


インターネット上の書き込みには、匿名性という陰に隠れて、論証責任を果たさない極めて無責任な言動をおこなっているケースがある。アメリカでは、I(私)という存在は、天にある絶対神との関係で、強く自覚された存在、つまりたえず神との関係で自我を見つめているので、ハンドルネームであったとしても、多重人格的な装いをもって、他人に悪罵を投げつけるということはないということなのだろう。アメリカ英語は、言語構造が、たえず論証責任を果たさなければならない構造になっているという。表現上形式的に(この形式的というのが重要なのだそうだ)論証責任が生じるとアメリカでは、かならずデータとともにデータをあげる根拠を示す必要が生じる。論証責任なしの無責任な放言はまったく相手にされないということだ。
インターネット上では、「糞」だとか「逝ってよし」だとか、「死ね」だとかいう表現が飛び交ったりしているが、ここには論証責任が生じているにもかかわらず、論証がない。ここにはきわめていびつな「民主主義」が存在している。
「死ね」という人権侵害の言葉を使う場合、「あなたは死ぬべきだ」という意見なので、アメリカでは、なぜ死ぬべきなのか、根拠となるデータともにそのデータを活用して論拠を示すことが必須になる。言語の仕組み上、それを述べていれば、いいたいことを頭ごなしに批判されることはないという。きちんとした論立てがおこなわれている場合は(こう言う場合がほとんどなのだが)、その論拠を崩したり、相手の意見を認めた上で死ぬべきではないことを論証するだけの話なのだそうだ。そのことによって感情的な対立が生まれるようなことはないらしい。
論証責任を果たすためには、データとともにデータを活用して論拠を明らかにするということは肝に銘じるべきことだと思う。
論証のない決めつけはおこないたくない。
この本は単なるハウツーものではないと感じる。現代文は、明治に作られたが、それまで日本には、明確な哲学がなかったし、したがって抽象的な概念を使うこともなかったようだ。日本における抽象的な概念が難しい用語にしばられているのは、明治時代の方々が、英語という論理的な言語から抽象的な概念を日本語にうつしかえるときに、ものすごい苦労をして言葉を紡ぎ出した結果なのだという。たとえば、英語のイメージという言葉を明治の先達は形象と訳した。アイデアは観念、想念と訳された。英語では、日本のように何か難しい用語を駆使して議論をおこなっているのではなく、日常用いられている言葉で議論は組み立っているのだという。もちろん、専門的な用語はある。しかし、専門的な用語を支えている言葉自体は、日本の論文のように至極難解だということではないらしい。
英語が苦手なぼくにとって、英語の世界は未知の世界に等しい。しかし、英語がきわめて論理的な形式に支えられた言語であり、日本語がきわめてゆるやかであいまいな表現、すべてを表現するな、言わなくても気持ちは通じるという世界で成り立ってきた言語だと言うことは理解できる。
こういう特徴を持った日本語を使って論理を組み立てていく訓練をどうすればできるのか。ぼくの読書は、いよいよこの本の山場にさしかかりつつある。


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Posted by 東芝 弘明