志位さんのオンラインゼミ

雑感

会議で話をしているとエンジンがかかってきて、意見交換が活発になる瞬間というものがある。厚生文教常任委員会の席上、その他の議題のところで、U議員から相談のような、提案のような発言があり議論になった。自由に意見交換をしてもらっていると、話に拍車がかかり、意見交換が活発になってきた。相手の話を聞きながら議論が深まっていくときに、人は会議を楽しいと感じるようになる。今回はそういう話になった。

会議後、志位さんが質問に答える形で2時間半語った「志位さんと語るオンライン学生ゼミ」を見た。肩肘を張らず、わかりやすく語りながら、同時に「この質問には簡単に語ることはできないです」と話す姿に共感が持てた。弁証法についていろいろな説明の仕方があると言いつつ、弁証法のものの見方について説明していた。同時にマルクスの資本論の後書きについても説明していた。「「科学的社会主義」の「科学的」とは何ですか」という問に対して、一言で言うなら「科学的というのは、事実から出発して法則を明らかにするということです」というのは見事な説明だと思った。

ただ同時に、質問に対して答えるという形式では、深く理論を学ぶという形にはならないということも分かった。このことを志位さんは充分深く理解していたので、さらに深めるために本を手元に置いて、それらの本を紹介することに力を入れていた。学ぶことは多いなと感じた。

弁証法のものの見方というのは、解釈論ではない。人間の意識の外にある客観的な事物というのは、弁証法的に成り立っているが、人間は一度に弁証法的に成り立っている客観的な事物を把握できるものではない。
では具体な事物の具体的な姿をどうとらえるのかというときに、①物事を連関と連鎖の中でとらえる。②物事を生成と発展、消滅の過程の中でとらえる。③不動の対立や固定した境界線を認めず、物事のなかにある対立した側面の全体像をとらえるという3つの見方を活用すれば、具体的な事物の具体的な姿に接近できるということである。
連関と連鎖の中でとらえるためには、視野を広くもって事実を多面的に調べるということになる。
生成と発展、消滅の過程の中でとらえるというのは、発展してきた歴史を調べるということが基本になる。
不動の対立や固定した境界線を認めないというのは、人間の認識と深く関わっている。事物の境界線というものは、ことによっては規定(定義)というものになる。しかし、人間が行っている規定や定義というものは、人間が事物を把握する上で用いる一つの研究上の認識であったりする。規定や定義をすることによって、物事の本質に接近していくが、では現実の事物の全てをその認識が表しているのかというとそうではない。実際の事物は変化しており、ときにはAからBに移行したり、別のものに転化したりする。本当は、固定した境界線はないんだということ、対立も不動ではないことを認めつつ、一つのものの中にある相反する二つの傾向は、相互転化したり変化したりしていることを大胆に認めつつ、事物をとらえる努力をするというのが、事物には固定した対立や境界線はないという意味だ。

この3つの見方は奥が深い。この見方をたえず意識して事物をとらえる努力をすれば、かなり客観的事物の中にある具体的な弁証法を把握することができる。ただし、根底において事実に基づいて事物を探究するという姿勢を忘れると、この3つの見方も弁証法ではなく詭弁に転化する。事実に基づいて法則を発見するというものの見方を貫いて、この3つの見方を生かしていけば、研究する対象の具体的な姿に沿って、事物を把握するところに近づく。そうやって得た認識は豊かな弁証法に彩られるということだろう。

事物が弁証法的に成り立っているのは、根底には一つのものの中に相反する2つの傾向があるからだ。具体的事物の存在のあり方に沿って理解していくと、その理解は自ずから弁証法的になる。人間の認識が弁証法的にならざるを得ないのは、具体的な事物が弁証法的に存在しており、人間の認識はこの具体的事物の弁証法を反映するからに他ならない。事物の反映としての認識と事物の存在の仕方の根底には、物質の統一性がある。物質の統一性こそは、思考と存在の弁証法の根源だろう。


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雑感

Posted by 東芝 弘明