「よりみち」を訪ねた

雑感

ひきこもりの人を支援している「よりみち」が大谷の元菊谷医院の邸宅を寄附していただいて、オープンセレモニーを開いたという連絡をいただいた。内覧会が昼から行われるというので、訪問させていただいた。雨が少し降っていた。傘を差して歩いて行くと、入り口に立体的な文字で「よりみち」というイーゼル型の標識が飾られていた。

玄関に受付があり、2段になっている上がりがまちの階段を上ると広い屋敷に入ることができる。入り口近くの和室の丸テーブルに座って話を聞かせていただいた。顔見知りの方も多かった。女性の方々が「よりみち」を支えてくださっている。退職された人々が、自分のよりよい生き方を選択する形で「よりみち」に関わっている。かつらぎ町には不登校になっている生徒が多いという話をさせていただいた。

不登校の児童生徒が、心置きなく通える学校をつくることが求められていると思う。学校が子どもたちにとって、居心地のいい幸せな場所になっているのかどうか、という問い直しが必要なのではないかと以前から思っている。学校は勉強を学ぶ場所であるとともに、子どもたちの生活の場所、かけがえのない友だちを作る場所、人間として成長する場所であってほしいと思う。学校に行くのがしんどいなどというのは、学校という太い柱の中心が失われている状態なのだと思う。

学ぶことが喜びになり、遊ぶ楽しさがあり、友だちと出会う楽しさ、人間として生きる楽しさがある学校という存在は、根本的には、子どもたちを温かく包み込んでくれるものであってほしい。
大人になって、子ども時代を思い出すと、楽しく遊んだよね、友だちがたくさんいたよね。もう一度あの場所に戻りたいよねという無条件であったかい存在になってほしいと思う。競争なんていらない。学びたい好奇心を伸ばして、学ぶことに夢中になり、思いっきり遊べる場所、思い出すと先生とこともたちの笑顔が浮かんでくる場所、そう、幸せが溢れる場所。それが学校であってほしい。

「また、そんな夢みたいなことをいう」といわれそうだ。でも、学校は本来子どもたちを受け入れて優しく育ててくれる場所であるはずなのに、子どもたちに苦痛を与え、学校に行くのに勇気や苦労が伴うような場所にしたのは、子どもたちではない。そういう学校にしてしまったのは大人たちだ。産業界の責任も大きい。一体どれだけの荷物を子どもたちに押しつけたのか。政府と教育委員会、産業界は考え直すべきだろう。ある時代の、あるときから学校が、お化けのように恐ろしい存在になって、子どもたちにのしかかってくるようになったのは、なんだったんだろう。

「日本社会は競争社会だから、それに負けない子どもを育てる。そのために厳しく指導する」
それは違う。そういう厳しい指導が、社会に悪循環をつくりだす。教育から大きく変われば、社会も変わる。人間がみんなで力をあわせ、そこに喜びを見いだすような教育になれば、少しは社会もよくなる。だって、子どもたちへの優しさが次の社会をつくるんだから。教育から変われば、社会も変わる。

「しんどいから学校に行きたくない」という存在になった学校というのは一体何なのか。それは本当に学校なのか。
子どもたちを優しく受け入れる学校になれば、不登校の子どもたちはうんと少なくなる。
学校の先生を3倍化する。まずはそこから始めてほしい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明