葬儀のあと

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知人宅の女性が亡くなったので、葬儀に参列させていただき、最後のお別れにも立ち会わせていただいた。
お孫さんに囲まれた幸せそうな写真がスライドで紹介され、涙がこみ上げてきた。
「ほんとに、眠ってるみたいや」
棺に花を手向けるときに、女性の方々が何人もそう言って嗚咽した。
花を添えてセレモニーホールの部屋の外に出ると、Oさんが力なく座っていた。
「私、同級生なんよ。子どもの頃からよう遊んでね。何遍も顔見たから、悲しくてよう見にいかんわ」
横に座るとOさんはそう話しかけてきた。でもOさんは少し背を伸ばして、
「やっぱり、行こうかしら」
そう問いかけてきた。迷っているようだった。
『もう最後ですから』、ぼくは、こう言いたかったが言葉にならなかった。そっと背中を押した。Oさんは、ぼくにハンドバックを預けて力なく立ち上がった。
自宅に戻り、硬筆を習いに行っていた娘を迎えに行き、役場に向かった。
役場の玄関前に立ち、中に入ろうとしたとき、携帯電話が鳴った。
「宮本顕治さんが亡くなった」
電話の向こうで声がした。
ぼくは、20歳の時、和歌山に来た宮本顕治さんの演説を聞いたことがある。選挙中の応援だった。
20歳の時に書いたという「敗北の文学」を読んだのは、ぼくが18歳の頃のことだった。ぼくと同じような年齢の時に書かれた文章は、実に大人びており鋭かった。
23歳の時に、宮本百合子との往復書簡を読んだ。「12年の手紙」というものだった。獄中にあった宮本顕治さんと結婚した宮本百合子。愛する人への書簡は、多義に富んでいた。
宮本顕治さんが日本共産党の委員長であった時代、1月1日の日刊「赤旗」紙上では、宮本さんへの新春インタビューがおこなわれていた。
ぼくはこのインタビューを毎年、大阪の枚方に向かう電車の中で読んでいた。
23歳の年に日本共産党の勤務員になったが、正月、多くの人がふるさとに帰って行く時期に、ぼくはいつも大阪に出向いていた。
兄妹と離ればなれになり、家族を失っていたぼくは、正月を同級生の友人宅で過ごしていた。1月1日の赤旗新聞と宮本顕治さんへのインタビュー。これがぼくの宮本さんについての思い出だった。
宮本さんは、大きな巨人だったと思う。戦前日本共産党が徹底的な弾圧を受けていた時代の体験者であり、しかも不屈に戦った方だった。戦後、レッドパージの中で日本共産党が、こんどはGHQの弾圧を受け、党が分裂したときの体験者でもあった。
日本共産党は、1957年に党の分裂を克服し、ぼくが生まれた翌年の1961年、現在の基礎になっている綱領を採択した。この綱領路線を確立するうえで宮本さんは、最も大きな役割を果たした方だった。
日本共産党は、ソ連にも中国にも、どの国の共産党にも迎合せず、自分の頭で日本の現状分析をおこない、たたかいの方針を確立していった。今日、インターネットで訃報の記事を読んでいると、この路線を日本のマスコミも「日本共産党の自主独立の路線」と紹介していた。
大局的にものを見るという点で、宮本さんの洞察力は深かった。
文芸評論家だったので、豊かな言葉を使い、読む人の心をとらえる文章を書いた方だった。
心からご冥福をお祈りしたい。


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Posted by 東芝 弘明