ピカソの展覧会への記憶

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23歳の時の話だったのか、18歳の時の話だったのかがはっきりしない。
もしかしたら18歳の時の話だったのかも知れない。
京都の美術館でピカソ展があり、同級生のM君がこの展覧会を見に行き、ぼくに感想を語ってくれたことがあった。
「ピカソの絵は大きいんや」
「まず、大きいところに特徴があった」
「あの顔がいくつも描かれている絵は、右から見ると一つの絵に見え、左から見ると別の絵に見える。ピカソは、見る方向を変えると絵が違って見えることを計算した上で絵を描いている」
Mくんは、喫茶店でぼくにそう語ってくれた。
この話は、ぼくの記憶の中に鮮明に残っている。
あれから30年か25年近くが経過した。未だにぼくはピカソの絵を見たことがない。
機会があれば、ピカソの絵を見てみたいと思う。
絵には、絵に込めた思いがあり、それが力になって何かを訴えかけてくるものだ。それを読み取るのが鑑賞なのではないが、訴えたいことを込め、表現した絵は、見る人に何らかの感慨をもたらしたりする。絵が発する何かが、見る人の世界観や人生観とどこかでシンクロし、共鳴する。
自分が歩んできたなかで、培われてきた哲学や人生観と絵が重なり合い、共鳴し合うということだ。
でも、もしかしたらそれは、ある意味で自分との対話なのかも知れない。絵は、その絵を見る人に何らかの感慨を呼び起こす。それらの感慨は、自分の感覚が絵に投影されて、絵を通じて自分に跳ね返ってくるものなのかも知れない。
多くの絵には、題名がついている。付けられる題名は、時には、絵に込められたメッセージの謎解きに役立つ。
演奏だけの音楽にも、音に込められたメッセージがある。それを読み取れるかどうかも、それぞれの人がもつ感性に左右される。
演奏は、ある意味で抽象的なものだが、人々は、それらの演奏からさまざまな感性を引き出されている。
絵を見るという行為も音楽を聴くという行為も、根本においては同じことのような気がする。
豊かな蓄積と感性があれば、音楽も絵もさまざまなことを語りかけてくる。
絵から受け取るものは、かなり抽象的なものだし、呼び起こされる感情も、人によって千差万別だろう。しかし、多くの人がいいと認める作品の中には、人を惹きつけてやまない何かが込められている。
ぼくが、ピカソの絵を見て、同級生が抱いた感想と同じような感想を持つことができるだろうか。それは心もとない。
何も感じないとすれば、ぼくの人生への思いは、薄っぺらなものだと言えるかも知れない。
子どもの時代から、本物にふれて、見て、それらのものが形成されてきた歴史的なプロセスを学ぶようにすればいい。
人間の認識は、変化量によって把握できる。さまざまないいものに出会って、それらのものが形成されるに至ったプロセスを知ることは、価値のあることだと思う。


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Posted by 東芝 弘明